あ.い.さ.つ.blog

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【サーディンズ】

【第1章 イツミの職業体験】

 

梅雨とはいえ、今週はまだ雨が降っていない。今日は中学校の職業体験の3日目だ。

池嶋イツミは茨城県ひたちなか市の市場に来ている。職業体験は9時開始なので、すでに漁業関係者はてんでばらばらに散っていて、イツミが市場に到着する頃には買い物目当ての観光客ばかりだ。イツミは観光客と目が合わないように、忙しいふりをしている。

イツミはまこと水産という聞いたこともないお店で、接客や商品陳列をすることになった。正直、市場に興味があったわけではないし、どこで職業体験がしたいという希望があったわけではなかった。たまたま家でその話になったときに、珍しく父親が市場での仕事を提案してきた。その提案をひっくり返すことの方が面倒に感じたので「じゃ、そうする…」と一言だけ返事をしたのだった。

「こんにちは」と目が合った観光客にはイツミも一応明るく挨拶をする。できれば話しかけてほしくないのだが、地元のお客さんは「あら、こんなかわいい店員さんが入社したんかい?」とイツミに声をかけてくる。

「したっけれ、イケメン漁師が頑張っかんね」とまこと水産のまことさんが笑って答えてくれるので、本当に助かる。

なかには普通に「あわびってまだ買えないんですか?」と本格的な質問をしてくる観光客もいるが「あわびとか伊勢海老は来週くらいにならないと入らないです」と棒読みで答えられるようになった。まことさんに教えてもらったまま答えているが、聞いたこともないような魚を聞かれたら「少々お待ちください」と返事をするように教えられている。

まことさんがまこと水産を社長として経営しているだろうことは、さすがにイツミにもわかる。お店には、まことさんと女性の従業員が2人働いている。そして自分達の中学2年生3人が、今週5日間加わっている。その分華やかになっているかというと、たぶんそうでもない。

それにしても忙しいお店だ。女性従業員の1人はずっとレジでお会計をしている。もう1人は新しい魚を並べたり、お客さんの買い物カゴを持ってあげたりして、ずっと動き回っているように見える。

イツミが前回、市場に来たのはもう5年くらい前だろう。家族で来たのだが、何しに来たのか覚えていないし、魚に興味なんてなかった。早く帰りたい一心だった気がする。早く帰りたいのは職業体験も一緒だが、帰っても明日も来なければならないので、イツミはどうでもいい気分になっていた。

 

初日の月曜日、市場に先生と来たときは「池嶋イツミさんね。まことって呼んでくれ。よろしくな!」という調子ではじまった。おそらく30代後半であろう、まことさんは、イツミのお父さんよりも若く見える。必要以上にからんでくるわけでもなく、ひたすらお客さんと楽しそうに話をしている。 

職業体験4日目の木曜日になった。イツミは、とにかく残り2日間を無事に過ごすことだけを考えていた。来週になったら、まことさんに3人でお礼の手紙を書いて、授業参観で職業体験発表を行う。その準備を考えるだけでも頭が痛くなりそうだ。しかし、何日か市場にいたことで、かつお、いなだ、すずき、まぐろ、いくつかの魚を一発で見分けられるようになった。ちょっとだけ魚介類に興味を持てた気がするので、個人的には大きな成果だと感じている。

他の2人は友達でもなく、ただの同級生である。まことさんの手伝いをして缶詰を並べている生徒、ずっと空き箱を運んでうろうろしているだけの生徒、そしてどう見られているのだろうかイツミの3人だ。

 

4日目は、途中から雨模様になった。そんな日に限って、珍しいであろうことが起きた。途中からまことさんは、製氷機を叩いたり電源を入れ直したりするようになった。2回くらい電話もしている。製氷機の調子が悪いようで、氷が完全に固まらない。ぽっかりと大きな穴があいた氷がなんとか出来上がっている。製氷機は、お昼前になってまったく動かなくなってしまった。

真夏ではないので店頭の氷がすぐに溶けてしまうことはないだろう。しかし、氷が充分に入っていない発泡スチロールの箱に魚介類が並んでいるのは、中身がスカスカのお弁当箱のようだ。イツミが見ても不自然に感じた。

雨脚は強くなっている。氷はどうするんだろう…とイツミは少し心配していた。

まことさんが「しゃあねえから、知ってる店からもらってくるわ」と言ってブリキのバケツを洗いはじめた。

なんだ、もらえるんじゃ良かった…と安心したが、どう考えてもまことさんがお店から離れるのはダメな気がしてきた。お客さんが困るだろうという心配はある。それよりもまことさんがいないときに、お客さんに何か難しいことを聞かれでもしたら、結構困ることになるんじゃないかな。 

「私が行きます。どこに行けばいいですか?」とまことさんに言ってしまった。

まことさんは「おう、イツミ!やってくれっか。じゃ、頼むわ」と、あっさりお願いしてきたので拍子抜けした。あれ、本当に私が行くのかな。自分で言っておいて信じられなかった。まとこさんは丁寧に知り合いのお店の場所を教えてくれた。

「もう電話してあっから、イツミを見たらわかんじゃねえかな」

じゃねえかなって、思っていたよりもさらに楽観的な人だ。

右手に傘を差して、左手にバケツを持って向かう。何も持っていなければ5分くらいの距離だ。帰りも傘を差して歩いたが、氷いっぱいのバケツが重すぎる。4回くらい左右の手を持ち替えながら運ばなければならなかった。10分かかった。

お店に戻るとまことさんは喜んでくれたが、氷はどう考えても一往復では足りない。まことさんに「イツミさん。今日はすまないが、ゆっくりでいいからこの仕事をやってくれないかな」とお願いされた。普段のまことさんからは、似合わないような丁寧口調でお願いされたが、そうなるだろうことはイツミにも予想できていた。

3往復目になり、さすがに腕が痛くなってきた。ゆっくりでいいからと言ってくれたが、バケツに雨が入るので溶けかかった状態になってしまう。さすがに穴があいた氷よりはマシだが、早く運ばないと意味がない。

 5往復目になりイツミは傘を差すのをやめてしまった。腕の長さが1センチくらい伸びた気がする。女子が全身濡れた状態でバケツを持って歩いているのは、ちょっと異様な光景かもしれない。だんだん観光客の目も気にならなくなった。

まことさんはイツミのことを気にして声をかけてくれるが、修理業者の対応もしており、いつも以上に忙しそうだ。

他の2人の生徒は「代わろうか?」と言ってくれたが、全員が濡れて全滅するのもどうかと思うし、ほとんど意地で「大丈夫!大丈夫!」と笑いながら運んでいた。腕は痛かったが、心臓がどきどきしているのがわかった。

午後3時になり、製氷機が動くようになった。

雨でもあまりお客さんの数が変わらないように見える。時期的に観光客も多い。イツミは海外旅行の経験はないが、海外から来ているようなお客さんは、雨くらいでは当初の予定を変更しないことが多いのだろう。イツミ達、中学生3人はそろそろ帰宅の時間になるので、お店の片付けや掃除をしている。

ふとイツミは、中国人であろうお客さんが何かを探しているのが気になった。知っている単語が時々交じっている。缶詰っぽい。イツミがすたすたと、お客さんの死角になっている棚の方まで歩き

「グゥァントォウ イズ ヒア!」

と教えた。缶詰って英語でなんて言うのかな。中国語と英語のごちゃまぜだったけど、なぜか通じてしまった。まことさんが少し離れたところから見ていたので、笑顔でオッケーサインを送っておいた。全身ずぶ濡れで、おかしなテンションになっていると自覚していた。

このエピソードがあったからかわからないが、イツミは市場独特の臭いにも慣れてきて、なんとなくここを職業体験に選んで良かったと思えるようになってきた。梅雨空の下で毎日新しいお客さんが楽しそうにしている。よく見ると、隣のお店の人達も楽しそうに働いている。楽しそうに働いているから、そこにどんどん楽しそうな人達が集まってくる。

たったこれだけのことだが、イツミは何かとても大きなことを体感している気がしていた。楽しそうな雰囲気の中心にはまことさんがいる。

イツミは4日目の帰る前に、まことさんに聞いてみた。

「イワシって扱ってないんですか?」

実は初日から気になっていた。茨城県がマイワシの漁獲高で日本一であることは小学校で教わっていた。そしてイツミの父親はイワシの工場で働いている。

「イワシはまだかな」とまことさんは答えた。

「市場にはイワシばっかり並んでるのかと思ってました」

「イツミはおもしれえこと言うねえ」

漁獲高日本一、しかも父親もイワシの仕事なので、イツミのなかでは茨城県の漁業はイワシで成り立っているくらいの感覚だった。

「イワシはもうちょい南かな。神栖市の市場では売ってっかもしれねえけど、市場じゃあんまり並べねえかな」

「なんでですか?」

他の2人の生徒は、話に入ることなくこちらを見ている。

「イワシは市場で買うような魚じゃねえかな」

まことさんは続ける。

「取れたてのイワシの刺身っちゃあうまいけど、弱い魚って書くだけあってすぐ痛んじまうんだ。もともと安くて、ちっちゃい骨も多いしなあ、お土産にもらった方はあんまりうれしくないかもねえ」

イツミは、父親がイワシの仕事をしていることを言わなかった。父親は1時間もかけて神栖市で働いている。そんなに人気がない魚のために何の仕事をしているのだろうか。

最後にまことさんは、今日の頑張りを褒めてくれた。

職業体験の期間は学校で友達に会うことはないのだが、毎晩ラインでやり取りしている。皿洗いばっかりやっている友達もいれば、何をしていいのかよくわからず、ホームセンターで時間が過ぎるのを待っているだけの友達もいる。なんとなく、ずぶ濡れで頑張ったエピソードは言わなかった。

まとこさんもお客さんがいないときに、スマホを見たり打ったりしていた。ひょっとしたら自分達のことを市場の仲間と話題にしているのかもしれない。一度も怒られていないから、たぶん迷惑はかけていないだろう。

職業体験は残り1日だ。市場のことがわかってきた気がする。イワシと反対のことを考えればいい。

ほとんど県外では売ってない魚を売る。

ほとんど売ってないから値段も高い。

だからお土産にすると喜ばれる。

職業体験発表で発表するネタに困っても、いざとなったら父親に聞けばなんとかなると思っていた。でも大丈夫そうだ。イワシのイの字も出てこないだろう。

 

【第2章 池嶋とイツミ】

 

今夜も缶詰をツマミにしてビールを飲んでいる。ビールとのコラボを前面に出してもいいかもしれない。池嶋は夕飯の席で聞いてみた。

「なあ、イツミ。市場はどうだった?」

「それがね、結構勉強になったよ」

なんとなく、そして意外とイツミの機嫌が良さそうに見える。

最初の頃は職業体験から帰ってくると、真っ先にシャワーを浴びて着替えて、妻に

「ねー、臭くないかなー」「髪がバサバサでもうやだー」「疲れたー」

と散々当たり散らしていたらしい。

「なんていう店で働いていたんだ?」

池嶋は聞いてみた。勉強になったよ、という言葉が気になった。

「まことさんのお店。お店の名前は、まこと水産だったかな?」

「へえ。まことさんねえ」

「最後の日に聞いてみたんだ。お店の名前ってどうやって決めたんですかって」

中学生の質問なんてそんなもんだろう。

「そしたら何て言ってた?」

「お店の名前はどうでもいいんだって。実際さ、市場の仲間もまことって呼んでたし、常連さんもまことさんだったな。ほとんどまこっさんにしか聞こえないけど」

「人気者なんだな」

「市場では顔を覚えてもらえればいいんだって。顔が看板って言ってたかな」

池嶋は安心した。市場に行ってがっかりしていたらどうしようと思っていた。実際に3日目くらいまでは、イツミも何も言いたそうではなかったので放置しておいた。ひとり娘だからなのかわからないが、イツミのストレスは全部妻に向かっている。

「忙しいお店なのか?」

池嶋は箸を置いてテレビを消した。

「うん。いつもいっぱいお客さんが来ていた。それ以外にも、しょっちゅう中学校に連絡していたから、まことさんはずっと何かしていたかな」

「へえ。いちいち連絡しなきゃなんないんだなあ」

職業体験では、体験先で安全に過ごすことが最優先される。ほとんどの体験先企業は無事に終わることを優先して、当たり障りのない仕事しかさせないものだ。

「後半は結構ほめられたよ。お金は触らせてもらえなかったけど、外国のお客さんに売り物を教えたり、魚も覚えた。雨の中で氷を運んだり、塾より頑張ったかも」

それは良かった。池嶋は自分の仕事のことを娘がまったく聞いてこないことを、ここ何年も気にしていた。ひょっとしたら関心がないどころか漁業関係には近づきたくないと思われていたら、とても残念だと思っていた。妻は2人の邪魔をしないよう、リアクション芸人みたいに「へえ」「ふうん」と繰り返している。

池嶋はさらに続けた。

「何か面白いことはあったかい?」

「お父さんは面白い仕事をしているねって言われた」

池嶋はびっくりした。まことなんて知り合いがいたっけな。

「まこっさんは、何か聞いてきたのか?」

「普通に、イツミさんのお父さんはどんな仕事をしてるのって聞かれたよ」

「俺の仕事のことは何て紹介したの?」

「神栖市でイワシ工場で働いてるかもって教えた」

「かもって何だよ」

池嶋は笑ってしまった。

「最後の日にね、まことさんに聞いてみたんだ。お父さんはイワシの仕事を一年中やっているから、イワシって一年中獲れるのかと思ってたって」

ちょっとがっかりだ。家族ですらイワシってそれくらいの存在なのか。

「そしたらまことさんに聞かれたよ。お父さんは海外出張に行ったりするかって」

「で、どう答えたの?」

「三日くらい家に帰って来ないときがありますって答えた。あとは何だろ」

この魚屋はなかなかやるかもしれない。

「お父さんは中国語が話せるのかって聞かれた」

「それで?」

「話せるかもって教えた」

「かもばっかりだな」

池嶋はまた笑ってしまったが、缶詰の味見なんてどうでもよくなってきた。

「だからイツミは中国語がわかるのかって真剣に聞いてきたよ」

イツミが、中国人のお客さんに缶詰の場所を教えたエピソードを話した。

「お父さんが家で、魚とか缶詰をふざけて中国語で言ったりするんだって教えちゃった」

ふざけているわけではないのだが、イツミにはそう見えるらしい。

「もし、一年中イワシだけを売っているなら、なかなか面白いねって言ってた」

イツミの言葉に、池嶋はどきどきしていた。

「神栖市でイワシを獲るだけじゃなくて、それを缶詰とかに加工して海外に売ることに挑戦しているんじゃないかなって予想してたよ」

「へえ、まこっさんはやるねえ」

ほとんど当たりだ。漁獲量次第で値段が変わり、年々消費量が減っていく一方のイワシを売る方法を考えている。入社した20年前はただのイワシ加工工場だった。そのときから業界の見通しは厳しかったが、社長の先見性にかけて入社した。

池嶋は自分の会社を紹介するときは、イワシ工場で働いていると伝えている。現在取り組んでいる事業は、まだしっかりした形になっていないし、説明するのがちょっと大変だ。もう少し認知度が上がったら胸を張れるのだが。

「試しにウチの会社の動画を見てみるかい?」

イツミが見たことない前提で聞いてみた。

「動画なんてあるんだ。今時じゃん」

池嶋は自分のスマホを取り出した。

 

【第3章 湯沢の転職支援】

 

駅南の開発が進んでいるとは聞いていたが、ひと昔前と比べると別の街みたいだ。湯沢は人材紹介の仕事で茨城県水戸市に来ている。会社は宇都宮市にあるのだが、今日面談をする求職者は茨城県から栃木県へのUターンを考えているらしい。湯沢は求職者と面談を行うことで、これまでのキャリアや今後の希望を聞く。そして、なるべく条件に合うような求人を紹介するのが仕事だ。湯沢が動くことで求職者は、一回一回栃木県に足を運んで転職活動をする必要がない。

多くの場合は遠隔地の面談は電話で行うのだが、今日は別件で水戸市の企業に訪問した。そのついでに直接会って面談を行うことになった。湯沢が池嶋さんという求職者に合うのは、もちろん初めてだ。茨城県で残業をすることになったので「どうせなら、いい人だったらいいな…」というのが本音である。

18時、待ち合わせ場所のファミレスの前で行き交う車を眺めている。いつも見ているような車ばかりだが、乗っている人とはまったく目が合わない。求職者との出会いは、時にかくれんぼのような感覚になる。自分は鬼になって、いつも誰かを探している。たくさんの人が目の前にいるのに、転職支援をきっかけに出会うのはほんの一握り。

「こんにちは」

池嶋さんから声をかけてきた。

ファミレスの隅の席で向かい合って座る。ドリンクバーをふたつ注文して面談開始だ。

池嶋さんはネット検索で、宇都宮市の人材紹介会社を探してくれたらしい。人材紹介を行ううえでは、求職者のスキルがポイントとなる。どんなに人柄が良くても、企業が評価するようなスキルがないと紹介する企業もあまり乗り気にならない。

面談序盤は、池嶋さんのこれまでのキャリアを確認する。

「大学では中国語を勉強していたんですね。何かやりたいことがあったんですか?」

湯沢が聞いてみる。

池嶋さんは少し考えてから答える。

「特に大きな理由はないんですが、もともとアメリカやヨーロッパよりはアジアの方に興味があって勉強していました。中国語は本当に難しかったです」

私が年下だからかわからないが、教えるような丁寧な口調だ。

「今の会社はどのような理由で選んだのですか?」

「そうですねえ。茨城県のイワシは本当においしくて魅力的だと思います。でも正直に言うとそれは後付けの理由です。大学から近かったですし、その頃はバブル崩壊直後で就活は大変でした。いち早く内定を出してくれたので、あまり考えずに飛び込んだのが実際のところですね」

池嶋さんは笑って答えてくれたが、30代の湯沢にはバブルもバブル崩壊もどんな現象なのかほとんど理解できない。いち早く内定を出してくれた企業が、よくわからない企業でも飛び込んでしまう。何でも事前にネット検索できる時代になって、日本人は臆病になってしまったのかもしれない。

面談開始から15分、湯沢の池嶋さんに対する第一印象はこうだ。

なぜか大学で中国語を勉強していた。そしてなぜかイワシの加工工場に勤めている。そこでイワシ一筋、仕事熱心なのはよくわかる。そして実の父親が高齢になった。介護が必要な状況になりそうでUターンを考えている。工場の責任者などを任されているわけではないが、人柄は良さそう。良くも悪くもシンプルなキャリアだ。

湯沢は、求人を紹介するのが難しいかもしれないと思っていた。懸念事項がいくつかある。まず、イワシを扱っていたキャリアは栃木県では活かしにくい。農産物や畜産物とは違う気がする。年齢も40代半ば、正直あと10歳若ければまったく新しい仕事にもチャレンジできるのに、と思ってしまう。

池嶋さんのひとり娘は来年春に中3受験生になる。そのため、できれば進級するタイミングで栃木県での仕事を見つけたい。そして娘さんにはUターンする予定のことを伝えていない。娘さんは転職することに対してもがっかりするかもしれないらしい。祖父の具合が悪いことは娘さんも知っているが、父親として、今まで仲良かった友達と離れてしまうことを申し訳ないと思っているようだ。このあたりの気持ちは男性の湯沢にもイメージできる。娘さんの立場で考えると、かわいそうな気持ちでいっぱいになる。確かに中2から中3になるタイミングは修学旅行もあるし部活もピークだ。そもそもよく知らない土地で高校受験に挑戦することになる。

湯沢は、池嶋さんが希望する年収や職種をいろいろ聞きながら、どんな求人だったら池嶋さんに合うだろうか考えていた。なかなかこれというイメージができなかった。原因のひとつは池嶋さんのキャリアをはっきり理解できていないところがある。イワシを加工しているのだが、あちこちで営業みたいなこともしている。会社にとって便利屋さんのような存在だ。

少し経ち、池嶋さんの「娘が今の仕事を辞めることを残念に思うかもしれない」という一言が気になった。自分が娘だったらそんなこと思うだろうか。

「そういえば、なぜ娘さんは今の仕事を辞めることにがっかりするかもしれないんですか?」

湯沢は突破口が見つかればいいと思って聞いてみた。

「実は、先月娘の中学校で職業体験があったんです。話すと長くなるのですが簡単に言うと、娘は市場に行ったことで、私の仕事を認めてくれるようになったんです。職業体験でウチの会社に来たわけではないのですが、えっと…小さい音なら大丈夫かな。娘と一緒に見た動画を見てみませんか?」

池嶋さんは、スマホで会社紹介の動画を見ることを提案してきた。

 

遠洋漁業のシーンからはじまる。

漁師が黒い海でイワシを獲っている。

漁師に笑顔はなく、命懸けと言ってもいい。

まだ生きているイワシがどんどん港に運ばれる。

立ち止まることなく工場内を進む。

全身マスクの作業員が並ぶ。

器用な手さばきでイワシを開いている。

たくさんの細かい骨を職人技で取り除く。

最高級のオリーブオイルに包まれる。

味付けが終わり、缶詰ラインに流れる。

完成した缶詰が、段ボールにきれいに並べられる。

トラックで、船で、大切に運ばれる。

社員のインタビューがダイジェストで流れる。

皆一様にこの会社で働いている誇りを語る。

日本の漁業の未来をつくりたい。

イワシの魅力を最大限に引き出したい。

イワシを嫌いな子どもに食べてほしい。

イワシを喜ばれるお土産にしたい。

イワシを知らない国の人達にも届けたい。

 

7分程度の動画が終わった。

「すごくいい会社ですね」

湯沢は思ったまま口に出してしまった。誰もが動画を見終わる頃には、イワシはただの煮干しに使われる小魚ではなく、最高の食材のひとつに感じられるだろう。そして池嶋さんが勤めている会社が、ただのイワシの加工工場ではないことがわかる。

イワシの遠洋漁業は第一次産業だ。それを加工するのが第二次産業。消費者向けに販売するのが第三次産業。それぞれ別々の企業で扱うと、どうしても途中の利益上乗せがある分、価格が高くなってしまう。価格競争が起きて値下げをすると、最終的にダメージを受けるのは第一次産業だ。

第一次産業の企業が食材をブランド化して、第二次と第三次の工程も自社内で行う挑戦が全国各地で少しずつ行われている。一と二と三を合わせて第六次産業と呼ばれているが、その最前線で戦っている企業だ。そしてその中心には池嶋さんがいる。

池嶋さんはイワシを獲る名人でも、大量生産する工場長でもなく、元気に販売する店長でもなかったのだ。地元の食材の魅力を最大化して、他とは違うブランド戦略を考え、世界のマーケットを相手に喜んでもらおうと飛び回っている。

娘さんの職業体験発表では、市場で体験した内容とは別に、茨城県のイワシの未来について発表したらしい。娘さんの気持ちがわかる気がした。湯沢のドリンクは空っぽになり、お冷まで飲み干している。興奮していた。

栃木県にもイチゴをはじめ、全国的に有名な農産物はたくさんある。おいしい食材を作っていても、それをどうやって世界中の人達に知ってもらうかが課題だ。悩んでいる農家は多いと聞いたことがある。今はネット通販があるので直売も可能だが、農産物には旬がある。あっという間に痛んでしまうのはイワシと一緒だろう。そこで、収穫したものを加工品にして販売する仕組みができれば、年間を通して売上を確保できる。だがしかし、これを企画して実行できる農家が果たしてどれだけあるだろうか。

池嶋さんなら食材が何であってもできるはずだ。

はっきりしなかった池嶋さんの強みが一気に見えた気がする。

「第六次産業を育ててきたキャリアを武器して、栃木県の企業にアピールしましょう」

栃木県の良い企業に紹介したい。湯沢が思う良い企業とは、自然に良い人材が集まってくる企業だ。湯沢はまだ人材業界の経験は浅い方だが、その浅い経験でも魅力的な企業に、魅力的な人達が自然と集まるのは鉄則だろうと実感している。

湯沢は池嶋さんと別れてから、車の中でもう一度動画を見た。

「すごいじゃん」またひとりでつぶやいた。

水戸市を出発してからも湯沢は、池嶋さんのことを考えていた。池嶋さんの転職支援を全力でするつもりだが、とりあえず明日にでも栃木県の高校入試情報を池嶋さんにメールしてあげよう。

 

【最終章 イツミとサーディンズ】

 

イツミは22歳になった。

梅雨明け宣言することを国民全員が忘れているのかもしれない。昨日今日と高温注意報が出ている。

「そろそろおやつの時間ですよー!」

イツミは栃木県で保育士の資格を取って、保育園で働いている。 

昔からの友達には「イツミが保育士になるなんて思わなかった」と決まり文句のように言われた。正直イツミも「これだ!」と思ってこの仕事を選んだわけではないのだが、ずっと兄弟がほしかったし、誰かのために働く実感があった方が頑張れるかな、と思って進路を決めた。

おやつの時間になり準備をはじめる。イチゴの缶詰を開けると、季節外れにイチゴの甘酸っぱい香りが広がる。真夏にこんな新鮮なイチゴが出てきても、園児はイチゴそのものに喜ぶだけだが、イツミは缶を開けるたびにすごいことだと感じている。香り、食感に大人はびっくりする。専用のシロップで缶詰しているので、簡単にスプーンで潰せる。もちろんそのまま食べてもおいしいのだが、牛乳をかけてもおいしくなるように作られている。

園児ひとりひとりに、イチゴの入った器を配る。口の周りを汚して食べる子、テーブルにこぼしながら食べる子、みんなうれしそうだ。

生産量全国一位のイチゴと本州一位の牛乳のコラボ企画は、予想以上の売れ行きらしい。「マジックベリー」とネーミングされたこの商品は、子どもやお年寄り向けに缶詰を開けて牛乳をかけるだけ、イチゴも簡単に潰せることが売りだった。イチゴはもともと大きくておいしいので、缶詰にすることよりもイチゴの味を邪魔しない、さらに牛乳とも相性の良いシロップの開発の方が大変だったらしい。

今では「マジベリ」の愛称でお土産はもちろん、非常食としても買う方が多い。もうすぐ海外輸出がはじまるので、お父さんはさらに忙しそうだ。

特別に採用活動をしなくても日本全国から

「イチゴの魅力を最大限に引き出したいです」

「イチゴを知らない国の人達にも届けたいです」

「栃木県で働きたいです」

そんな調子で、どんどん応募が来るらしい。

なんか聞いたことがあるような台詞だったが、イツミもうれしかった。

実はこの「マジックベリー」の開発には、イツミも相当関わった。

お父さんは「缶詰=酒のツマミ」という生活を長年続けてきたので、甘い缶詰というものの良し悪しが判断できなかった。「なあ、イツミ。これどう思う?」と自宅で試作品を食べ続けているので、見た目、味、食感のバランスを考えて意見ができるようになった。

「もうちょっと甘くした方が、ウチのおじいちゃんみたいな人はおいしいんじゃないかな」

「これくらいやわらかいと、ウチの園児でも潰せるかも」

実生活に繋げて想像するので、イツミはある程度自信を持って意見が言える。そして父親に相談されると仕事でもないのに頑張ってしまう。

イツミは園児のうれしそうな顔を見ていると、暑さも疲れも吹っ飛んだ。いつまで保育士の仕事を続けるのかわからない。結婚するまでかもしれないし、それからも続けるかもしれない。しかし、お父さんの企画を陰から手伝っている経験はどこかで役に立つだろう。

おやつの時間が終わると最後の遊びの時間だ。いつもは外遊びだが、今日は真夏日なのでおゆうぎ室で遊ぶことになった。

「今日はイツミ先生とみんなでサーディンズをしますよー!」

イツミが大きい声で呼びかける。

サーディンズはかくれんぼなのだが、普通のルールとは違い、最初に鬼だけが隠れることになっている。そして鬼を見つけたらそこに一緒に隠れるので、かくれんぼを反対にしたような遊びだ。

じゃんけんで鬼は健太くんに決まった。イツミと園児は年長の部屋に残ったまま、健太くんだけがおゆうぎ室に行き最初に隠れる。

健太くんの「もういいよ!」という大きな声が聞こえた。残り20人の園児が一斉におゆうぎ室に向かって走り出す。

「ゆっくりだよ。健太くんを見つけても、そっと一緒に隠れてね」

イツミは大きな声を出した。小学生などが遊んだら、鬼を見つけて一緒に隠れる瞬間を他の友達も見逃さないだろう。だから、あっという間に終わってしまうはずだ。保育園だとなかなか終わらない。

このサーディンズの良いところは、鬼がポツンと探す必要がないので寂しい思いをすることがない。笑いをこらえるだけだ。そして鬼以外の探す方もみんなでワイワイ探せばいいので全員が楽しく遊べる。

おゆうぎ室の園児が半分くらいに減ってきた。イツミもオルガンの裏に隠れている健太くんを見つけた。一緒に固まって隠れる。さすがに大人も加わると全員がすっぽり隠れることができないので、どんどん見つかっていく。みんなで楽しく肩を寄せ合っている様子はぬいぐるみ売り場のようだ。また1人集まった。

次から次へと仲間が増えていく。こうやって、お父さんの会社にもどんどん仲間が集まっているのかな。イツミがそんなことを思っていたら、健太くんに小さな声で聞かれた。

「ねえねえ、イツミ先生。サーディンズってどういう意味なの?」

イツミは2年くらいこの保育園で働いているが、初めて聞かれた。少し説明を考えた。

「イワシっていうお魚さん、知ってるかな。サーディンズは英語でイワシのことだよ。アメリカではね、かくれんぼをこうやって遊ぶんだって」

 

イワシは敵に見つかりにくいように、体の色が海の色になっている。そして、弱くて小さい魚だが、大群で固まって泳ぐことで大きな魚に見せかけている。

 

「ねえ、これってイワシさんの遊びなの?」

「そうだよ。イワシさんもこうやって遊ぶんだよ」

 

市場では、まことさんの周りに今日もたくさんのお客さんが集まっているはずだ。お父さんの会社にもどんどん仲間が集まっている。健太くんのところに最後の1人が集まった。

「健太くん、いっぱい集まると楽しいね!」

 

 

【第73回栃木県芸術祭応募作品】