2019年に栃木県芸術祭に応募した短編小説【サーディンズ】のアレンジ版です。残念ながら入賞することはできませんでしたが、講評会に参加させていただき指摘事項を踏まえて書き直しました。宇都宮市民芸術祭では入賞したこともあり応募したときには自信があったのですが、各委員に指摘された内容は非常に勉強になりました。
アレンジ版では
①視点が何人も変わるのでわかりにくい
②タイトルとテーマが合っていない
③親子のコミュニケーションにフォーカスした方が良い
という指摘3点を素直に取り入れています。登場人物のネーミングや設定、取り扱っているテーマは個人的な想いを遠慮なく盛り込んでいる内容です。どうしてもただの落選作品にしたくなかったので、こちらに残します。以下本文です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「あなたにとって仕事のやりがいって何ですか?」
イツミは父に聞いた。どういうテンションで聞けばいいのかわからないが、宿題だからしょうがない。インタビュー用紙を手にして棒読みで聞いた。
「新しいことにチャレンジしていることかな」
父は遠くの壁を見て考え込んでから答えた。答えるまでは5秒間くらいだったが、真剣に考えてから答えてくれることがイツミは少し意外だった。わかるようなわからないような答えだ。父はあまり仕事のことを家では話さないが、「給料を稼がなきゃ困るだろ」とか「やりがいって聞かれてもなぁ」とか面白くなさそうに答える姿を想像していた。
「イワシでみんなをびっくりさせたいのが、やりがいといえばやりがいかな」
イツミの父はイワシ工場で働いている。
「では、あなたにとって仕事って何ですか?」
またイツミは聞いてみた。父を「あなた」なんて呼んだことはないが、また先生の原稿に書いてある通りに読んでみた。今回の質問は10秒くらいの間があって、それから父は答えた。
「みんなに喜んでもらうことかな」
父はぶっきらぼうというか余計なことを言わない人だ。真剣に答えてくれたのは意外だったが、まるで一行日記のような会話だ。
もうすぐ職業体験が始まる。実際に職業体験の行き先を決める前に、中学校から父や母の仕事についてインタビューする宿題が出されている。
おそらくほとんどの生徒にとっては、やればすぐ終わることはわかっているのに、腰の上がらない宿題になっている。改めて親にインタビューするのが恥ずかしいこともあるが、聞いた後のリアクションもどうしていいのかわからない。
親を褒めればいいのがろうか。感謝すればいいのだろうか。イツミも例外ではなかった。イワシで喜んでもらうのが仕事。父の言葉には無理があるような気がしていたが、残念ながら興味があるような素振りもできないので「ふぅん、そうなんだ」と返事をした。
「みんなに喜んでもらうことかな」と聞いたまま用紙に記入して、それ以上の具体的な話をしない父に感謝した。
梅雨とはいえ、今週はまだ雨が降っていない。今日は職業体験3日目だ。イツミは茨城県ひたちなか市の市場に来ている。
職業体験は9時開始なので、すでに漁業関係者はてんでばらばらに散っていて、イツミが市場に到着する頃には買い物目当ての観光客ばかりだ。イツミは観光客と目が合わないようにして、忙しい振りをしている。まこと水産という聞いたこともない店で、接客や商品陳列をすることになった。正直市場に興味があったわけではなかった。家で体験先を決める話になったときに、父が珍しく話に割り込んで市場での仕事を提案してきた。その提案をひっくり返すことの方が面倒に感じたので「じゃ、そうするよ」と一言だけ返事をしたのだった。
「こんにちは」と目の合った観光客にはイツミもできるだけ明るく挨拶をしている。できれば話しかけてほしくないのだが、地元の客は
「あらま、こんなかわいい店員さんを釣ってきたんかい?」
「なんつったって、エサがいいからね」
と、まこと水産のまことさんが笑って答えてくれるので本当に助かる。
なかには普通に「あわびってまだ買えないんですか?」とジャージに長エプロン姿のイツミに質問してくる観光客もいるが「あわびとか伊勢海老は来週くらいにならないと入らないんです」と愛想笑いで答えられるようになった。まことさんに教えてもらった通りに答えているが、聞いたこともないような魚を聞かれたら「少々お待ちください」と返事をするように教えられている。
まことさんがまこと水産を社長として経営しているだろうことは、さすがにイツミにもわかる。店には、まことさんの他に女性従業員が2人働いている。そしてイツミ達中学2年生の3人が、今週5日間加わっている。その分まこと水産が華やかになっているかといえば、たぶんそうでもない。
それにしても繁盛している店だ。女性従業員の1人はずっとレジで会計をしている。もう1人は新しい魚を並べたり、客の買い物カゴを持ってあげたりして、ずっと動き回っているように見える。
イツミが前回、市場に来たのはもう5年くらい前だろう。家族で来たのだが、何をしに来たのか覚えていないし、そのときの風景もほとんど覚えていない。早く帰りたい一心だった気がする。早く帰りたいのは職業体験も一緒だが、帰っても明日も来なければならないので、イツミはどうでもいい気分になっていた。
職業体験の2週間前、市場に先生と挨拶に来たときは「池嶋イツミさんね。まことって呼んでくれ。よろしくな」という調子で始まった。おそらく30代後半であろうまことさんは、イツミの父より若く見えた。挨拶のときも職業体験が始まってからも必要以上にイツミ達にからんでくるわけでもなく、ひたすら客と楽しそうに話をしている。
職業体験の4日目になった。イツミはとにかく残り2日間を無事に過ごすことだけを考えていた。来週になったら、まことさんに3人でお礼の手紙を書いて、授業参観で職業体験の発表を行う。その準備を考えるだけで頭が痛くなりそうだ。
しかし3日間も市場にいたことで、かつお、いなだ、すずき、まぐろ、いくつかの魚を一発で見分けられるようになった。ちょっとだけ魚介類に興味を持つことができたので、イツミにとっては大きな成果だと感じている。他の2人は友達でもなく、ただのクラスメートである。まことさんの手伝いをして缶詰を並べている生徒、ずっと空き箱を運んでうろうろしている生徒、そしてどう見られているのだろうかイツミの3人だ。
4日目は途中から雨になった。そんな日に限って珍しいであろうことが起きた。
途中からまことさんは、製氷機を叩いたり、電源を入れ直したりするようになった。おそらく修理業者であろう相手に大声で電話もしている。製氷機の調子が悪く、氷が完全に固まっていない。ぽっかりと大きな穴が空いた氷がなんとか出来上がっている。
製氷機は昼前になって、まったく動かなくなってしまった。
まだ真夏ではないので店頭の氷がすぐに溶けてしまうことはないだろう。しかし氷が充分に入っていない発泡スチロールの箱に魚介類が並んでいるのは、中身がスカスカの弁当箱のようだ。イツミが見ても不自然に感じた。
雨脚は強くなっている。氷はどうすんだろう、とイツミは少し心配していた。
まことさんが「しゃあねえから、仲間の店から氷もらってくるわ」と言ってブリキのバケツを洗い始めた。なんだ、もらえるんじゃ良かった、とイツミは安心したがどう考えてもまことさんが店から離れるのはダメな気がしてきた。客が困るだろうという心配はある。それよりもまことさんや女性従業員がいない店に生徒3人が残される方が嫌な予感がする。
「私が行きます。どこに行けばいいですか?」
思わずまことさんに言ってしまった。
まことさんは「おぅイツミ。やってくれっか。じゃ頼むわ」とあっさりお願いしてきたので拍子抜けした。あれ、本当に私が行くのかな。イツミは自分で言っておいて信じられなかった。まことさんは丁寧に仲間の店の場所を教えてくれた。
「もう電話してあっから、イツミを見たらわかんじゃねえかな」
じゃねえかなって、思っていたよりも楽観的な人だ。
右手に傘を差して、左手にバケツを持って向かう。何も持っていなければ5分くらいの距離だ。帰りも傘を差して歩いたが氷山盛りのバケツが重すぎる。1分おきに左右の手を持ち替えながら運ばなければならなかった。10分かかった。
店に戻るとまことさんは喜んでくれたが、どう考えても氷は一往復では足りない。
まことさんに「イツミさん。今日はすまないが、ゆっくりでいいからこの仕事をやってくれないかな」とお願いされた。普段のまことさんからは似合わないような丁寧口調でお願いされたが、この展開はイツミにも予想できていた。
5往復目になりイツミは傘を差すのをやめてしまった。腕の長さが1センチくらい伸びた気がする。女子が全身ずぶ濡れでバケツを持って歩いているのは、ちょっと異様な光景かもしれないがだんだん観光客の目も気にならなくなった。
まことさんはイツミのことを気にして声をかけてくれるが、修理業者の対応をしていたり、雨宿りの客も集まっているようで、いつも以上に忙しそうだ。他の2人の生徒は「交代しよっか?」と聞いてくれたが、全員がずぶ濡れで全滅するのもどうかと思うし、ほとんど意地で「大丈夫、大丈夫」と笑いながら運んでいた。
腕は痛かったが、イツミは自分の心臓がドキドキしているのがわかった。腕が痛いからではなく、たくさん歩いたからでもない。ひょっとして私は仕事をしているのかもしれない。そんなことをイツミは思っていた。
午後3時になりやっと製氷機が動くようになった。まことさんは相棒の肩を叩くようにまた製氷機を叩いていた。イツミも自分がいるうちに動くようになって安心した。
雨でも市場全体の客の数は変わらないように見える。時期的に観光客も多い。イツミは海外旅行の経験がないが、海外から来ているような観光客は雨くらいでは当初の予定を変更しないことが多いのだろう。
イツミ達、生徒3人はそろそろ帰宅の時間になるので、店の片づけや掃除をしている。
ふとイツミは中国人であろう中年夫婦が何かを探しているのが気になった。2人の会話から中国語であることはなんとなくわかる。知っている単語が時々混じっている。缶詰っぽい。イツミがすたすたと客の死角になっている棚まで歩き
「グゥァントォウ イズ ヒア」
と叫んだ。缶詰って英語でなんて言うのかな。中国語と英語のごちゃ混ぜだったけど、なぜか通じてしまった。中年夫婦は「ありがとう、ございます」と頑張った日本語で答えてくれた。まことさんが離れたところから見ていたので、笑顔でオッケーサインを送っておいた。
全身ずぶ濡れでおかしなテンションになっていると自覚していた。
このエピソードがあったからかわからないが、なんとなくイツミは市場を職業体験に選んで良かったと思えるようになってきた。市場独特の臭いにも慣れてきた。梅雨空の下で毎日、客が楽しそうに集まっている。相変わらず店の人達も楽しそうに働いている。楽しそうに働いているから、そこにどんどん楽しそうな人達が集まってくる。
たったこれだけのことだが、イツミは何かとても大きなことを体験している気がしていた。楽しそうな雰囲気の中心にはまことさんがいる。どこで職業体験をしたいのか先生から希望を聞かれたが、どこで体験するかよりも誰と働くか、そっちの方が大事なんじゃないかな。
気になることがあって、イツミは4日目の帰る前にまことさんに聞いてみた。
「イワシって扱っていないんですか?」
実は初日から気になっていた。茨城県がマイワシの漁獲高で日本一であることは、小学校で教わっていた。そして父はイワシの加工工場で働いている。
「イワシは今年もないかな」
まことさんはあっさり答えた。
「市場にはイワシばっかり並んでいるのかと思ってました」
「イツミは面白いこと言うねぇ」
漁獲高日本一、しかも父はイワシの仕事をしているので、イツミのなかでは茨城県の漁業はイワシで成り立っているくらいの感覚だった。
「イワシはもうちょい南かな。神栖市の市場では売ってっかもしれねえけど、市場じゃあんまり並べねえかな」
「なんでですか?」
他の2人の生徒は、話に入ることなくこちらを見ている。
「イワシは市場で買うような魚じゃねえな」
まことさんは続ける。
「取れたてのイワシの刺身っちゃ美味いけど、弱い魚って書くだけあってすぐ痛んじまうんだ。もともと安くて小っちゃいし骨も多いしな。お土産にもらった方はあんまりうれしくないかもねえ」
イツミは父がイワシの仕事をしていることを言わなかった。父は1時間も通勤時間をかけて神栖市で働いている。そんなに人気がない魚のために一体何の仕事をしているのだろうか。実はどんな仕事をしているのか、イツミは詳しい話を聞いたことがない。
最後にまことさんは今日の頑張りを褒めてくれた。
職業体験の期間は学校で友達に会うことはないのだが、毎晩ラインでやりとりしている。皿洗いばっかりやっている友達もいれば、何をしていいのかわからずホームセンターで時間が過ぎるのを待つばかりの友達もいる。かっこいい店員がいたとかいないとか、そんな話ばかりだ。
なんとなくずぶ濡れで頑張ったエピソードは言わなかった。職業体験は残り1日だ。市場のことがわかってきた気がする。イワシと反対のことを考えればいい。ほとんど県外では売ってない魚を売る。ほとんど売ってないから値段も高い。だからお土産にすると喜ばれる。
職業体験で発表するネタに困っても、いざとなったら父に聞けばどうにかなると思っていた。でも大丈夫そうだ。イワシのイの字も出てこないだろう。
最終日5日目になった。
市場の客が落ち着いてきた頃「なぁイツミ、市場はどうだった?」
まことさんが聞いてきた。
「思ってたより勉強になりました」
イツミは素直に答えた。
最初の頃は職業体験から帰ると真っ先にシャワーを浴びて着替えて、母に「ねえ、魚臭くないかなぁ」「髪がバサバサでもうやだ」「疲れた」と散々当たり散らしていた。一人っ子なこともあるかもしれないが、ストレスは基本的に母に向かう。そして母はいつも、イツミの気が済むまで話を聞いてくれる。
まことさんはさらに聞いてきた。
「イツミのおやじさんはどんな仕事をしてんだ?」
「えっと、イワシ工場で働いているかも」
「かもって何だよ」
まことさんは笑っている。最終日なこともあり、何でも聞いてみようという気になった。
「お父さんはイワシの仕事を一年中やってるから、イワシって一年中獲れるのかと思ってました」
「だから昨日聞いてきたのか。イツミはイワシが一年中獲れると思ってんのか?」
「だって、お父さんが仕事の話をするときはイワシばっかりなんです」
「おやじさんは東京とか海外に出張に行ったりすんのか?」
「1ヶ月のうち半分くらいは帰ってこないかな」
「へぇ、おやじさんは中国語が話せるのか?」
昨日のイツミと中国人らしき中年夫婦とのやりとりを見て聞いているのだろう。今日はまことさんからいろいろ聞いてくる。
「話せるかも」
「かもばっかりだな」
まことさんはまた笑っていたが、店の方を気にしながら真剣に話を聞いている。
「だからイツミは中国語がわかるんだな」
「お父さんは家にいるとき、魚とか缶詰をふざけて中国語で言ったりしてるんだ」
「ふざけてるわけではないと思うけどな。もし一年中イワシだけを売っているなら、なかなか面白いおやじさんだね」
イツミはさっきから、何を聞かれているのかピンとこない。まことさんは続けた。
「神栖市でイワシを獲るだけじゃなくて、それを缶詰とかに加工してさ、海外に売ることに挑戦しているんじゃねえかな」
じゃねえかなって言っていたが自信がありそうだ。なんでまことさんがここまで予想できるのか、イツミにはわからなかった。そして、自分が父の仕事をちゃんと知らないことを不自然に感じるようになった。ひょっとしたらまことさんの方がわかっている。まことさんはそれ以上は聞いてこなかった。何も言わなかったが鼻歌なんか歌っている。気が済んだ、そんな雰囲気を感じた。
「何ていう店で働いてたんだっけ?」
職業体験の翌週、夕飯の席で珍しく父から聞いてきた。
「まことさんの店、店の名前はまこと水産だったかな」
「へぇ、まことさんねぇ」
「2日目に聞いてみたんだ。お店の名前はどうやって決めたんですかって」
「そしたら?」
「お店の名前はどうでもいいんだって。実際さ、市場の仲間もまことって呼んでたし、常連さんもまことさんだったかな。ほとんどまこっさんにしか聞こえないけど」
「人気者なんだな」
父は自分から話しかけても一行日記のような返事だ。
「市場では顔を覚えてもらえればいいんだって。顔が看板って言ってたかな」
「忙しい店なのか?」
父は箸を置いてテレビを消した。3日目くらいまでは、父が提案した市場での職業体験を恨んでいたのでイツミも話題にしたくなかった。5日間が終わったタイミングで良かった。
「うん。いつもいっぱいお客さんが来ていた。それ以外にもしょっちゅう中学校に連絡してたから、まことさんはずっと何かしてたかな」
「へぇ。いちいち連絡しなきゃならないんだなぁ」
職業体験では体験先で安全に過ごすことが最優先される。体験先の会社は何事もなく5日間が終わることを優先して当たり障りのない仕事しかさせないものだ。そして、生徒もほとんど場合は必要以上の仕事をしようとは思わない。
「後半は結構褒められたよ。お金は触らせてもらえなかったけど、外国のお客さんに売り物を教えたり魚も覚えた。雨の中で氷を運んだり、塾より頑張ったかも」
「それは良かったじゃん」と父に言ってもらえた。
仕事について家で話す機会ができるだけでも職業体験をする意味があるのかもしれない。
母はほとんど話に入ってこない。今夜の珍しい父娘の会話の邪魔をしないためだろう、リアクション芸人みたいに「へぇ」「ふぅん」と繰り返している。
「まことさんがね、お父さんの仕事を予想していたよ。面白い仕事をしているんじゃないかなって」
イツミは気になっていたことを話してみた。
「そうなんだ」とあっさり返事をするかと思ったら「まことさんが何か聞いてきたのか?」と間髪入れずに聞いてきた。
イツミはまことさんとの最終日の会話を再現した。父がイワシ工場で働いていること、しかもイワシだけを扱っていること、出張が多いこと、中国語をちょっと話せること、そしてまことさんの「海外に売ることに挑戦してるんじゃねえかな」という予想を話した。
「やるねぇ、まことさんは」
父は勤めている会社でどんな仕事をしているのか丁寧に説明してくれた。漁獲量次第で値段が変わり、年々消費量が減っていく一方のイワシを売る方法を考える、それが父の仕事らしい。みんなが知っているイワシを、食べたことがないような美味しいイワシにするために、自社で加工して世界中に販売している。裏方の仕事ではあるが、父がいなければイワシを獲って缶詰加工するだけの会社だったに違いない。
父と1ヶ月分話した気分だ。
父が入社した20年前はそれこそ、ただのイワシの加工工場だった。そのときから業界の見通しは厳しかったが、社長の先見性にかけて入社したらしい。父が誰かに職業を説明するときは、一言で工場勤務と言っている。だからイツミもイワシ専門の加工工場というイメージしかなかった。
「試しにウチの会社の動画を見てみるかい?」
父の会社、父の仕事についてもっと知りたいと思ってきた。
「動画なんてあるんだ。今時じゃん」
父は自分のスマホを取り出して、イツミの隣の席に移動した。
遠洋漁業のシーンから始まる。
何人かの漁師が大声を出しながら、黒い海でイワシを獲っている。
漁師に笑顔はなく真剣そのものだ。
やがて船は陸に向かって進み、港に到着するシーンだ。
まだ生きているイワシが、どんどんコンテナに運ばれている。
コンテナは立ち止まることなく工場内に向かって進む。
小さい頃にイツミも見たことがある工場だ。
全身マスクの作業員が並ぶ。
作業員が器用な手さばきでイワシを開く。
手元がアップになり、たくさんの細かい骨を職人技で取り除いている。
最高級のオリーブオイルに包まれる。
味付けが終わり缶詰ラインに流れる。
完成した缶詰がダンボールにきれいに並べられる。
ダンボールを載せたトラックが高速道路を走り抜ける。
映像は高級ホテルに切り替わる。
エントランスからレストランまで泳ぐように映像が移動する。
カップルが楽しそうにディナーを食べている。
ナイフとフォークの先にはイワシが盛り付けられている。
社員のインタビューが次々とダイジェストで流れる。
日本の漁業をかっこいい仕事にしたい、社長が語る。
イワシがデートの主役になるといいな、女性社員が語る。
イワシの魅力を最大限に引き出したい、作業員が語る。
イワシが苦手な方にこそ食べてほしい、ベテラン社員が語る。
いつの日かイワシを喜ばれるお土産にしたい、ダンボールをチェックしながら語る。
イワシを知らない国の人達にも届けたい、トラックのドライバーが語る。
イワシに魔法をかける、キャッチコピーで映像は止まった。
皆一様にこの会社で働く誇りを語っている。4分の動画が終わった。あっという間だった。
「すごいかも」
イツミは思ったまま口に出してしまった。父は何に反応しているのかわからないが、嬉しそうに笑っている。誰もがこの動画を見終わる頃には、イワシはただの煮干しに使われる小魚ではなく、最高の食材のひとつに感じられるに違いない。中学生でも、父が勤めている会社がただのイワシ工場ではないことがわかる。中学校でも習ったばかりだ。
イワシの遠洋漁業は第一次産業。それを加工するのは第二次産業。消費者対象に販売するのが第三次産業。それぞれ別々の会社で扱うと、どうしても途中の利益上乗せ分があり価格が高くなってしまう。価格競争が起きて値下げをすると、最終的にダメージを受けるのは第一次産業だ。第一次産業の会社が食材をブランド化して、第二次と第三次の工程も自社内で行う挑戦が全国各地で行われている。一と二と三を合わせて第六次産業と呼ばれているが、その最前線で戦っている会社だ。その最前線に父もいる。
父はイワシを獲る名人でも、大量生産する工場長でもなく、元気に販売する店長でもなかったのだ。イワシの魅力を最大化して、他とは違うブランド戦略を考え、世界の魚好きを相手に喜んでもらおうと飛び回っている。
「実は、お父さんの仕事を今のうちに知っておいてほしかったんだ」
「どういうこと?」
「栃木県に引っ越そうと思っている。じいちゃんの具合が良くないんだ。ばあちゃんが病院に連れていくのもしんどいらしんだ。そんなわけでイツミにも迷惑かけるけど、みんなで引っ越しをしなきゃならない」
イツミにとってはジェットコースターのような夜になった。ただの職業体験の振り返りでは終わらなかった。来年春に父は栃木県へのUターンを考えている。もちろん今の会社を辞めて転職活動もしなければならない。イツミは中3になるタイミングで転校だ。友達のこと、部活のこと、受験のこと、考えなきゃならないことはたくさんありそうだけど一時停止ボタンを押したい気分だった。
父と1年分話した。
次の日いつものように、部活が終わって仲の良いアイと帰ることになった。
自転車置き場に向かいながら、思っていたよりもあっさり「私ね、春になったら栃木県に引っ越すんだ」と教えた。アイが泣いてくれたのでイツミももらい泣きみたいになったが、まったく離れ離れになる実感がなかった。この学校で一緒に過ごすのは残り半年ちょっとだ。だんだん実感が湧いてくるのかな。
「イツミのお父さんって仕事どうするの?」
アイがふと聞いてきた。
「なんか探すんじゃない?」
とイツミは答えた。職業体験の前だったら、工場勤めの父がまた違う工場に勤めるだけのイメージだった。今はちょっと違う。イワシがいない栃木県で父は何をするんだろう。イツミは栃木県に行ったとしても中学校に通って受験することは変わらないけど。
「仕事って難しいね」
独り言をアイに聞かれたらしく、アイは声を出して笑っていた。
7年後。
まさか梅雨明け宣言していることをアナウンサーが忘れてしまっているのかもしれない。昨日今日と高温注意報が出ている。イツミは21歳になった。
「そろそろおやつの時間ですよぉ」
イツミは栃木県で保育士の資格を取って保育園で働いている。アイには「イツミが保育士になるなんて思わなかった」と決まり文句のように言われた。正直イツミも「これだ」と思ってこの仕事を選んだわけではなかったが、ずっと兄弟が欲しかったし、誰かのために働く実感があった方が頑張れるかな、と思って進路を決めた。
おやつの時間になり準備を始める。イチゴの缶詰を開けると、季節外れにイチゴの甘酸っぱい香りが広がる。真夏にこんな新鮮なイチゴが出てきても、園児はイチゴそのものに喜ぶだけだが、イツミは缶を開けるたびにすごいと素直に感じる。香りや触感に大人はびっくりする。専用のシロップで缶詰しているので、簡単にスプーンで潰せる。もちろんそのまま食べても美味しいのだが、牛乳をかけても美味しくなるように作られている。園児ひとりひとりにイチゴの入った器を配る。口の周りを汚して食べる子、テーブルにこぼしながら食べる子、みんな嬉しそうだ。
生産量全国一位のイチゴと本州一位の牛乳のコラボ企画は、予想以上の売れ行きらしい。「マジックベリー」とネーミングされたこの商品は、子どもやお年寄り向けに開発された。缶詰を開けて牛乳をかけるだけ、イチゴも簡単に潰せることが売りだった。イチゴはもともと大きくて美味しいので、缶詰にすることよりもイチゴの味を邪魔しない、さらに牛乳とも相性の良いシロップの開発の方が大変だったと聞いている。今では「マジベリ」の愛称でお土産はもちろん、非常食として買う方も多い。もうすぐ海外輸出が始まるので父はさらに忙しそうだ。
父が転職した会社は特別に採用活動をしなくても
「イチゴの魅力を最大限に引き出したいです」
「イチゴを知らない国の人達にも届けたいです」
「栃木県で働きたいです」
そんな調子でどんどん全国から応募が来るらしい。なんか聞いたことがあるようなセリフだったが、関係ないイツミも話を聞いてなんとなく嬉しかった。
このマジックベリーの開発にはイツミも相当関わった。父は「缶詰は酒のツマミ」という生活を長年続けていたので、甘い缶詰の良し悪しが判断できなかった。「なぁ、イツミ。これどう思う?」と自宅で試作品を食べ続けているので、見た目、味、触感のバランスを考えて意見できるようになった。
「もうちょっと甘くした方が、ウチのおじいちゃんみたいな人は美味しいんじゃないかな」
「これくらい軟らかいと、ウチの園児でも潰せるかも」
実生活に繋げて想像するので、イツミはある程度自信を持って意見が言える。そして父に相談されると仕事でもないのに頑張ってしまう。
イツミも園児の嬉しそうな顔を見ていると、暑さも疲れも吹っ飛んだ。いつまで保育士の仕事を続けるのかわからない。結婚するまでかもしれないし、それからも続けるかもしれない。しかし、父の仕事を陰から手伝っている経験は何をするにも役に立つだろう。
「イチゴに魔法をかける」と5年前に父が言い出した時は、イワシのパクリかと思って笑ってしまったが、本当に魔法がかかったような缶詰が完成している。新しいことにチャレンジすることがやりがいっていつか言っていた。どこに行っても父は父だった。
職業体験をきっかけにイツミの中で何かが確実に変わった。まことさんのことは今でもたまに思い出す。まことさんも父も全然違う仕事をしているが、2人とも自分の仕事に誇りを持って楽しんでいるのは一緒だ。自分もそうなりたい。保育士の誇りって何だろう、どうすれば保育士の仕事をもっと楽しめるだろう。そんなことを考えているときはワクワクする。
イツミはマジックベリーを食べていると、魔法がかかったみたいに何でもできるような気がしていた。
終