あ.い.さ.つ.blog

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【宴の後始末】

短編小説「宴の後始末」は、初めて鬼怒川温泉を舞台にバブル前後の熱狂と混乱を、私なりの解釈で描いてみました。

時代設定的に、読む人を選んでしまうところはありますが、40代以上の方なら「そんな頃もあったなぁ…」それ以下の方なら「ホントにこんな時代があったんですか」という受け止め方をしてもらえるように、リアリティは意識したつもりです。

ハッピーエンドって何?という課題を、私なりに考えながらまとめてみました。

よろしければ、ご一読ください。

 

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 

浴衣に着替えた中年サラリーマンがずらっと並んでいる。

今夜の人数は95人。健太にはちょっとした軍団のように見える。司会を務める若手の男性が、緊張しながら社長をステージに促す。
その社長と呼ばれた男性は、みんなの日々の仕事ぶりを労いたい、おかげで我が社もここまで大きくなった、という言葉をかれこれ10分も話している。健太は大急ぎで、すでに会場内のあちこちに用意されているビール瓶の栓を抜いて回った。
社長の話が終わった頃には、ビール瓶はすべて煙突のように口を開いていた。この後、乾杯の音頭と言われる儀式がはじまる。注がれたビールを片手にステージに上がった男性は、さきほどの社長より多少若く見えた。


社長の言葉をうまく繋いで、みんなからのちょっとした笑いを誘っている。 
「乾杯!」
立ち上がっているその軍団が、一斉にコップを頭上に上げた。ぞろぞろとコップを片手に乾杯をして回っている。ニヤニヤ、ゲラゲラ、何とも微妙な笑顔を浮かべながら、しばらくは楽しそうに練り歩いている。新入社員であろう若手達が、どんどん酒を注いで回り行った席では一気飲みをさせられている。

「すいませーん、瓶追加!」と大きな声で呼ばれた。

また別の客は、空になった瓶を逆さにして振り回して合図する。どちらにしても健太は「はい、かしこまりました」と返事をして、秒速で追加の瓶を持っていく。

ここからは戦場のようだ。まだ瓶の中身が残っているのに「持ってこい」と、まるで部活の先輩後輩のように指示をする。あちこちで一気飲みをして、こぼれたビールを拭いて回る。せっかく作った料理は、若手であろう社員の皿にどんどん混ぜられて、若手社員同士の大食い対決がはじまる。

一部の年配社員の周りには、こちらにも若手社員が何人も円になって座って、明日どれだけ覚えているのかわからない話を聞いている。遠くの席では、立ち上がり「飲んでお詫びします!」と叫んで、上半身を露わに一気飲みをする男性が見える。

一時間が経過した頃には、料理は食べかけで放置され、健太も狂乱の宴が終わるのを待つしかなくなる。同期で入社した大介は淡々と客に対応している。 

余興がはじまるらしい。半分以上が残されている膳を、会場の端に寄せていく。そのついでに膳を倒して、料理がぶちまかれて、健太は慌てて片付けに向かう。司会の男性は、さすがに盛り上げるのが上手で、次から次へと、カラオケ、クイズ、ビンゴゲームとイベントが続く。

今回の社員旅行は、一定数の女性社員が含まれていることもあって、さすがに遠慮のようなものが働いているように感じる。これが男性ばかりの大宴会でコンパニオンをたくさん呼んだ日には、目も当てられないくらいの乱痴気騒ぎになる。

 

健太が高卒で入社した一年前は、コンパニオン相手に大はしゃぎしている大人を見て、どう受け止めればよいのかわからなかった。東京からはるばるやって来て、一夜の大宴会に参加している大企業のサラリーマンの素顔は、ひょっとしたら成績優秀、普段は真面目に仕事一筋で働いているのだろうか。そのストレスたるや、田舎の鬼怒川温泉で接客担当をしている健太には想像もできないものだろう。

ちょっと離れたここ鬼怒川に来たときくらいは、羽目を外したいのかもしれない。タガが外れた姿が目の前にさらされている。どちらが素顔なのだろうか。

どちらにしても、親が大金をはたいて大学に行き、四年間勉強していたのか、遊んでいたのかわからないが、過酷な就職競争を勝ち抜いてやっと入社した大企業。そのビジネスの戦場で働く戦士だと思って、健太は尊敬の念をどうにか抱いて接していた。同じ歳の大介の方が、よほど大人に感じられる。

一次会が終わった。最後の一本締めを盛大に行ってから、会場の方々でまだ社員が集まって盛り上がっている。

健太の仕事はまだまだ続く。会場に残っている膳を全部下げる。きれいに整ったままの膳なんてひとつもなく、大量に食べ残してある料理をどんどんまとめていく。〆の一品である白米は、食べている客の方が珍しい。提供しなくても誰も怒らないんじゃないかって思うときもある。

厨房で働くスタッフが、この食べ残しを見たらどう感じるのだろうか。せっかく前日から仕込んでおいた煮物も、毎日研いでいる包丁でさばいた刺身も、地元ブランドにこだわった豚肉も、味を覚えている客はどれだけいるのだろうか。

そんなことを考えながら、いつものように片づけを進めた。この仕事って何だろう。大介にもこの思いをぶつけたことはある。大介の回答はいたってシンプルだった。

「東京から来る社員旅行の連中は、ここで食べるより、よっぽど美味しいご馳走を普段から食べているんじゃないかな。だから、ちょっと珍しい料理が味見できればそれでいいんだよ」

これを聞いたとき、健太は腹落ちする感覚があった。

社員旅行で鬼怒川温泉に行って食べる料理なんて、最初から誰も期待していないかもしれない。それであれば、あれだけ食べ残しをしても心は痛まないだろう。さらに考えると、厨房スタッフだって、料理で喜んでもらおうなんて最初から考えていないのではないか。ただ大騒ぎができる場所を提供している、そんな温泉ホテルで働いていることが、健太にとっては気持ち悪い感覚だった。

 
健太には、6歳離れた兄がいた。

健太が小学校に入学することになり、兄が使っていたランドセルを背負うことになった。両親は、ちょうど六歳離れていることに非常に喜んでいた記憶があるが、いかにもおさがりのランドセルを背負っているのは、クラスに健太ともうひとりしかいなかった。
そのボロボロのランドセルとお別れをし、中学、高校と進学するにつれて健太の暮らしは目に見えてどんどん貧しくなっていった。牛の世話でとにかく忙しそうな父と母だったが、こんなに毎日働いても生活が苦しいことが、健太には理解ができなかった。牛がいるから旅行にも行けない、臭くて広いだけの家に友達を呼んだこともない。お金にはまったく余裕がなさそうだったが、それでも健太にとって尊敬する両親だった。

牛肉とオレンジの輸入自由化が原因であることがわかったのは、ちょうど高校を卒業する頃だった。大学進学をする選択肢は最初からなく、泊まり込みで働ける温泉ホテルは、健太にとっては最適だろうと決断した就職先だった。

ほとんど家と学校の往復で、変化の少ない生活を送っていた健太にとって、観光地の温泉ホテルでの仕事は、新鮮な体験の連続だった。様々な客がやって来る。賑やかにやって来る家族もいれば、父と同じくらいだろうか充分に中年の脂がのっている男性と不釣り合いな若い女性が2人だけで泊まることもある。しかし、そういった数名のグループは少数派で、ほとんどの場合が社員旅行として東京からやって来る団体客だ。

 

新入社員研修では、ビジネスマナーを学んだり、サービス内容を学んだり、覚えることが多かったが、思っていたより大変だったのは巨大ホテルの全容を理解することだった。

エントランスと呼んでいる受付部分は、1階ではなく6階だ。そこから渓谷をなぞるように客室が増築されており、もっとも下まで降りた1階には大浴場が設置されている。この大浴場につかりながら、窓越しに見える鬼怒川の景色を楽しむ設計だ。

受付が6階、全10階建ての構造は、これだけでも健太はかなり戸惑ったが、そこにとどめを刺したのが、迷路のような増築だ。どこの階を歩いていても、微妙に違う高さで隣の建物に繋がっており、特徴のない連絡通路は、自分がどの方向に進んでいるのか、そもそも何階を歩いているのか見失ってしまう。清掃をする年配女性がたくさん働いているが迷うことなく各部屋の清掃をしている手際は神業のように思えた。

数カ月経って、やっと館内地図が頭に入ってきた頃に、大宴会場と客室を増設するための工事がはじまることを教えられた。健太から見ると、どこに増設できる隙間があるのか見当もつかなかったが、これ以上複雑な構造になることが、大変というより滑稽に感じてしまった。

その頃に、同期の大介と仲が良くなった。同じく泊まり込みで働いているので一緒に賄いを食べて、仕事のことや家族のことを話すことが増えていった。健太の実家が酪農を営んでいることに、かなり興味をもって耳を傾けてくれた。大介は宇都宮市内の出身で、実家の経済状況、将来に向けた考え方がまったく違っていた。

大介の父は銀行に勤めており、将来は自分も同じ銀行に勤めるつもりらしい。観光地や温泉ホテルへの積極的な融資で、業績は絶好調だと教えてくれた。

「世の中では、この絶好調な景気はバブル経済って言われているんだ」

大介が教えてくれた。

「バブルってどういうこと?」

「どんどん膨らむっていうイメージじゃないかな。とにかく土地の値段がガンガン上がっているから、土地を買ってまた売ったり、あとは土地を持っているだけでお金を貸してくれるから、その借りたお金で会社が成長する流れが起きているみたいだね」

黙々と牛と向き合っていた健太の実家とは全然違う世界の話に感じられた。眼鏡をかけて長身、スーツが似合う大介は、確かに銀行で働いているイメージができる。

「随分とラクに稼げるんだね」

健太は素直な感想を伝えた。大介も同じ考えのようだ。

「確かに、銀行にとってはラクな時代かも。とにかく貸しまくれば儲かる。だけど、俺はちゃんと温泉ホテルの実態を見たくて、ここに就職したんだ」

大介の話では、父の紹介でこの温泉ホテルに入社したが、三年で辞めて銀行に勤めるらしい。そんな大介を、健太は素直にすごい奴だと感心していた。大学に進学する道もあっただろうし、何も苦労して現場仕事を体験しなくても、コネで銀行に入社してしまえば安泰な人生だっただろう。

お互いの幼少時代を語り合ったり、仕事の不満を言い合ったりして、大介のおかげで健太は、何となく大人になった実感が湧いてきた。

客室まで案内する、夕食や朝食の準備や説明、様々な仕事を覚えたが、宴会だけはその場の雰囲気で流れが大きく変わったり、酔って豹変した客にからまれたりで、1年経っても全然慣れることがなかった。この点は大介も同じ感想のようだった。

「まさかこんなに社員旅行ばっかり来るなんて思わなかった」

これが入社後の第一印象だったらしい。

確かに予約一覧は、団体客ばかりで埋まっており、そのほとんどが首都圏から来る社員旅行だ。つまり、社員旅行のニーズに応えて温泉ホテルは巨大化してきた。あたかも鬼怒川温泉全体に巨大な宴会場が並んでいるようだ。

「鬼怒川温泉は、ゆっくり旅行を楽しみたい人を遠ざけているとしか思えないね」

このあたりの受け止め方は、大介の方が複雑な思いだろう。自分が勤めている温泉ホテルが、社員旅行向けに拡大している。その資金を貸しているのは、大介の父が勤めている銀行だ。 


1991年になると、バブル崩壊のニュースがさかんに聞かれるようになった。大介のかみ砕いた解説によると、日本銀行がお金をじゃぶじゃぶ貸し出す方針を変えたらしい。それがどういった意味を持つのか、まったく健太にはわからなかったが、土地を買って売れば儲かる時代ではないことが、どうにか理解できた。

健太は入社して3年になろうとしていた。あれほど馴染めなかった大宴会も、うまい具合にやり過ごすことができるようになり、とにかく大人数の大宴会が増えればこちらは儲かり、健太の給料も増えることは間違いなかった。大介の退職時期が近づいていることは忘れていなかったが、銀行への転職を応援する気持ちよりも寂しさが勝ってしまい、健太からこの件を聞くことができなかった。

健太の後輩も随分と増えて、教育を任されたり、予約業務まで担当することになり、ホテルマンとしての誇りも感じるようになってきた。

健太の実家は相変わらず酪農を続けていたが、健太にも兄にも家業を継ぐように勧めたことは一度もなく、それだけ見通しは厳しいのだろう。ホテルマンとして働き続けていることに驚きながらもうれしそうだった。

 

年が明けて1992年になった。いい加減に大介は、銀行への転職に向けて動き出すかと思われたが、まさかの展開が待っていた。

「親父に銀行はやめておけって言われた。バブル崩壊で、銀行が貸しまくっていたお金が返ってこないらしい」

「そのお金が返ってこないと、銀行はやばいのか?」

「やばいなんてもんじゃない。例えば、ここみたいにホテルが増築することだけ見ても、何億っていうお金を貸していることになる。ホテルが潰れるようなことが起きたら、いつかは銀行も潰れてしまう」

健太にとって銀行は、手が届かないほどのエリートが勤めるイメージだったので、銀行が潰れるなんてまったく想像ができない。

「そんなことないんじゃないか?俺にはよくわからないけど。銀行が本当にやばかったら国だってどうにかするだろうし、社員旅行の予約だってずっと入ってるじゃん」

「確かにそうなんだけど、親父の真剣な言い方とニュースで聞いている内容とは、なんか違う気がするんだ」

大介の違和感は正しかった。

その年の忘年会、続く新年会、歓送迎会までは予約で埋まっていたが、目に見えて問い合わせが減ってきていた。女将に様子を聞いてみても、自分達に余計な心配をさせないためか、本当に手に負えないくらい状況が悪いのか、詳しい話をしたくなさそうだった。

支配人はあまりホテルで見かけなくなった。忙しくないので、現場の様子を確認したり、手伝うまでもないのだろう。

「申し訳ありませんが、どの部屋もいっぱいで、キャンセル待ちもできないです」

そう言って、予約を断っていた当時が嘘のようだ。近所の大型ホテルも同じように、悪い流れが押し寄せているようだ。

新入社員の頃に、連日あれほど盛り上がっていた宴会場は、一日中照明すら付けずに静まり返っている日が増えてきた。

「いつかまた忙しくなるのかなぁ」

健太は大介に聞いてみた。

「わからないな。親父の話だと、とっくに潰れてもおかしくないホテルばっかりらしい」

「そんなやばいホテルはどうするんだ?」

「銀行がさらに運転資金を貸しているって聞いている。ホテルの経営が危険なことはわかっているのに、倒産しないようにさらにお金を貸しているっていう状態だ」

「それは、また景気が良くなることが前提みたいだね」

健太のもやもや感は消えなかった。それは大介も同じ思いのようで、ホテルや銀行の行く末の話題になると、まったく笑顔がない。大介の表情からは、何か言葉にできないような決意が読み取れた。
 
バブル経済の崩壊から数年が経った。健太の勤めている温泉ホテルはそれからも、ゆるやかに利用客が減っていき、ゆるやかに一緒に働く仲間の数も減っていった。

健太の両親は、酪農から手を引いてしまった。健太が勤めているホテルの景気を心配してくれるが、その健太にも何と言っていいのかわからず模範解答が欲しいくらいだった。

健太と大介は、中堅のホテルマンとして成長していった。女将からも信頼されていることが伝わってくる。

女将によると、社長兼支配人は、連日資金繰りのために銀行を回っている。少し前までは、経営が苦しくても運命共同体のように資金援助してくれた銀行だったが、風向きが変わってきたらしい。女将によると「お祭り騒ぎの後始末をしているよう」とのことだ。

 

ある日、銀行員がホテルにやって来た。支配人に会うために出向いたようだが、いつものように不在だったので、健太は女将に対応をお願いした。

この日は、健太と大介をはじめ、社員4人がかりで巨大なクリスマスツリーをロビーに飾る日だった。景気が良くても悪くても光り輝くツリーの飾りつけは、最初は面倒に感じても、完成が近づくにつれてテンションが上がっていった。天井に突き刺さりそうなツリー、数えきれないカラフルな電飾を枝に巻き付け、雪に見立てた綿をこんもりと乗せる。

どうにかチェックインの時間には間に合いそうだ。試しに点灯してみる。みんなの顔が笑顔になっている。清掃スタッフも足を止めている。そうやって、観光客も一瞬足を止めて見上げる様子を、これまで何年も見てきて誇らしい気持ちになってきた。大介だけは笑っていないことに気がついた。

「どうした。浮かない顔して」

「親父が来ている」

大介の目線の先には、ロビー奥の窓際に座った銀行員がいる。その正面には女将。

「大介の親父なのか?」

「そうだな。何してるんだ」

クリスマスツリーを倉庫から持ってきたタイミングで、健太が銀行員をロビー奥のソファ席に案内したので、かれこれ5時間は経っている。女将に引き継いで、まったく銀行員のことは忘れてしまっていたので、大介の父であること、そしてまだロビーにいること、両方に驚いてしまって言葉が出なかった。確かに何をしているのだろうか。

大介はじっと、銀行員と女将の向かい合っているロビーを見つめていたが、何かを思い立ったようだ。

「健太も来てもらえるか?」

「もちろん」

大介は、親父と呼んでいた銀行員に向かって歩いていった。健太も続く。大介の父が大介に気づいたようだ。何かを言いかけていたが、それより先に大介が口を開いた。

「お話の途中で申し訳ありません。ご存じかもしれませんが、私の父です」

大介は立ち止まり、女将に説明した。

「大介くんのお父様にはお世話になっています。このホテルのメインバンクであり、ここ最近は担当としてお付き合いさせていただいています」

健太には女将の優しい笑顔の裏に、一瞬疲れの色が見えた。大介の目にはどう映ったかわからないが、そのまま大介は表情を変えずに言葉を返した。

「女将さん、失礼を承知ですが、少し父と話をさせていただいてよろしいでしょうか。健太も一緒です」

「わかりました」

女将にとっては、助け船になったのだろうか。女将は上品に立ち上がると、一礼をして事務所に下がった。

健太と大介もソファに座り、しばらくは親子の会話が続いた。

「まさかこんな形で、このロビーで顔を合わせるとは思わなかったな」

「気を利かせて、私が出勤している日は避けていたんですか?」

「俺がここの融資担当、大介はこのホテルで胸を張って活躍していれば良かったんだが、あまり気持ちいい用件ではなかったからな」

「そんなことも言ってられないくらい、うちの返済が厳しいってことですか?」

「そうだな。こうして大介がいても直接取り立てに来てしまうくらいの状況だ」

「女将さんは何て言っているんですか?」

「社員に給料を払うのも厳しくて、さらなる融資をお願いされている。支配人にはしばらく会えていないが、おそらく資金集めに走り回っているんだろう」

隣で聞いていた健太には、あまりに衝撃的なやり取りだった。矢面に立って、明るく振舞っている女将が気の毒に思えた。

「どちらにしても、持ち帰り案件だ。確かにうちが融資を止めれば、ほとんどのホテルが倒産するだろうから、結局融資を続けることになるだろうけど」

大介の父が立ち上がった。

「女将さんには、よろしく言っておいてくれ。こうやって取り立てるふりをすることも必要なんだ」

残された健太と大介は、そのままソファに座っていた。

「なんとなくリーダーみたいな雰囲気を感じるのは、大介と一緒だな」

大介が照れ笑いのような表情で言った。

「こんな場所で制服で親父に会ってしまったから、敬語で話してしまったよ。変な感じだっただろ」

「こっちは緊張して、それどころじゃなかったよ。なんで俺も同席させたんだ?」

「親父がここの融資担当をしているうちは大丈夫だ。見放すようなことはしないと思う。健太に安心してもらいたかったんだ」

大介の思いとは裏腹に、状況は一転した。

メインバンクが債務超過に陥って、ついに国有化されたニュースが流れた。大介の父がホテルを訪れた。

前回と同じように女将と向き合って座ったが、数分話した後にすぐに出ていってしまった。翌週も、大介の父は来た。女将と数分話して出ていった。

こんなことが数回繰り返されたが、見かねた大介が父を呼び止めた。健太も一緒にいたので、前回と同じようにソファに三人で座った。

「いつも大介をありがとう」

大介の父が健太に礼を言った。

大介も社員寮に住み込みをしているので、親子の会話は会った時くらいしかしないのだろう。健太が思っていた疑問を、大介が切り出した。

「女将さんに会って、何しているんだ?」

「それを聞いてどうするんだ?」

「女将さんが困っている。俺にも何かできることはないのか?」

隣の大介が興奮していることがわかる。

「大介ひとりが頑張ってもどうすることもできないよ」

「そんなことわからないじゃないか」

「数億では収まらない返済を求めている」

「それでも融資を続けているんだろ?」

「そんなことをしてたから、こっちも経営破綻したんだ。とにかくこのあたりのホテルに毎日のように出向いて、返済を求めている」

「親父がやっている仕事は、借金の取り立てなのか?」

大介の父はしばらく考えて、大介と健太の目を見ながらゆっくりと話した。

「大介は何か勘違いをしているのか。旅行がブームだから鉄道と連携する。ホテルが人気あるから、旅館には西洋化を提案して融資する。社員旅行が増えたから、大宴会場の増築を提案してまた融資する。客が減って運転資金が足りないから融資する。融資した運転資金は回収する。これは全部、銀行に勤める法人営業の仕事だ」

「でも傷口が広がったのは銀行のせいじゃないか」

「銀行のせいとか、誰のせいとか、そういうレベルの話じゃない。大介だって日々手を動かしながら、この仕事って正しいんだろうか必要なんだろうか。そう思いながらも、やるしかない仕事もたくさんあるだろう」

大介の父は、健太の目も見ながらゆっくりと話している。考える時間をしっかり空けてくれているかのようだ。

どれだけの社員が楽しんでいるのかわからない大宴会。味なんかどうでもいいと言わんばかりに早食い競争をしたり、平気で残したり。その大量に余った残飯を山のように捨てている毎日。ちょっと現実離れした場所に広い会場さえあれば、どこのホテルでもいいのではないか。サービスマンが自分じゃなくてもいいのではないか。それでも連日予約の電話が鳴り響き、その対応をするのも仕事。

健太は、これでいいのだろうかという疑問を抱えていた。それでもここまで辞めずに頑張ってきたのは、大介や女将をはじめ、一緒に働く仲間が素晴らしかったからだ。

「大介が女将さんと俺の間に挟まれていることは、紛れもない事実だし理解できる。俺がどう考えているかは別として、銀行員として目の前のやるべきことをやっているんだ」

大介は何も言い返すことができずにいた。

「大介がどうにかできる問題じゃない」

そのまま大介の父は、外へ向かって歩き出した。大介の顔は小刻みに震えていた。健太は思わず追いかけて聞いてみた。

「この温泉街はどうなるんですか?」

「いつか景気が良くなるから大丈夫。みんながそう思っているうちに何年も経ってしまった。それは銀行も一緒だよ。なんでこんなことになってしまったんだろうな」

答えになっていなかったが、それが見通しの絶望を暗示させた。

「大介のことはこれからもよろしくお願いします」

健太は女将の顔が見られなくなった。大介とも景気の話、ホテルの将来について話すことはなくなった。いよいよ支配人の姿は見えなくなった。何か気まずい雰囲気がありながら、それでも利用してくれる客を丁寧に迎え入れる日々が続いた

明らかにホテルの経営が右肩下がりになっていることは、どのスタッフも暗黙の了解のようになっていた。

 

そのような中途半端な危機感をうっすらと感じているホテルで衝撃が走った。いつの間にか、ホテル内の現金という現金が無くなっている。受付カウンター、売店、事務所にも小銭しか残っていない。

この第一報を聞いた時、健太は「終わったな」と感じた。経営的に厳しいというか、そういう次元ではない。気持ちが切れてしまった。もう無理だ。

「どうしたものか」

大介も珍しく落ち込んだ顔をしている。眼鏡を外してソファに座り込んでいる隣で、健太もどっかりと座り、色鮮やかな傘がたくさんぶら下がっている天井を見上げた。
しばらく何も考えずに、ただ傘の並んだ模様をひと通り追いかけてから、大介に提案してみた。

「とりあえず今夜からお客さんをどうもてなすか、女将さんと相談しよう」

「それができればいいけど」

大介の返事の意味がわからなかったが、一緒に女将を探しに歩いた。

「こんな時くらい、支配人もすぐ戻ってきた方がいいんじゃないかな」

健太がそう言っていた頃に、誰かが連絡したのだろう、二人の警官が来た。ホテル内の雰囲気が物々しくなった。ずっと気にしていた言葉を健太が切り出した。

「誰が犯人だと思う?」

「とりあえず、今いない人だろうな」

大介が返事をして、まもなく絶望的な結末が判明した。支配人、女将、もうひとりの幹部が行方不明になっている。健太には信じられなかった。頬を涙が流れていたが、何が悲しいのかわからなかった。

大介は出勤しているスタッフを全員集めるように指示を出している。大介より上の役職者、何十年も先輩のスタッフもいたが、大介の提案で一同がロビーに集まった。

大介は何をするつもりだろうか、邪魔になるような気がして健太は声をかけられなかった。こんな光景を見るのは初めてだった。接客、調理、清掃、事務、日々これほどの人数が働いていたのか。四十人はいるだろうか、そこに向かって大介が訴えた。

「経営陣が夜逃げしました。今いるスタッフでどうにかするしかありません。ここで私達も逃げるという選択肢はありますが、私達は別に悪いことをしたわけではありません。先々の予約はキャンセルしてもらうとして、当面はどうか力を貸してください。何もなかったかのようにホテルを運営しましょう」

健太は驚いた。盗難に落胆し、夜逃げに絶望し、大介の提案を聞いている。この一時間で感情が乱高下しすぎて、大介の言葉を聞くことで精いっぱいになっている。

「今夜も団体客が二件入っています。明日からも予約が入っています。緊急工事のような理由を考えて、二週間以上先の予約は他のホテルに斡旋しましょう。ここは鈴木さんにまとめてもらいたいです」

大介は続ける。

「接客部門は健太が仕切ります。もちろん何もなかったように、女将さんがやっていたスタッフの配置やお客さんへのフォローは健太が行います。仕入れに関しては、今日のチェックインの売上金で明日以降の分を仕入れましょう。料理長は、二週間で使い切れるギリギリの仕入れをお願いします。

銀行には説明しなければならないでしょうが、私が説明します。お金関係は、柴田さんお願いします。難しい話だと思いますが、今日明日くらいの売上金から給料を差し引いて残りで食材の仕入れや、お世話になっている業者にきれいに支払いができるか計算してもらいたいです」

大介はこうなることを予見していたのだろうか、火事場の馬鹿力というやつなのか、テキパキを指示を出している。堂々とした振る舞いに、支配人や女将に対する文句も消えてしまい、どこからともなく「残り数日だけどよろしくお願いします」という声をかけ合っている。

もうすぐチェックインの時間が訪れる。

とにかくやるしかない、そんな空気が流れて、それぞれの持ち場に散っていった。健太は心臓がどきどき鳴る音が耳に届くようだった。女将をはじめ、消えた三人には確かに世話になった。その恩返しになるだろうか。それにしても、あの女将が何も言わずにこんな仕打ちをするなんて信じられない。裏切られた腹立たしい気持ちもある。寂しさ、虚しさ、不安、たくさんの気持ちが入り混じって頭がおかしくなりそうだった。

いつもと変わらずチェックインを進めていく。以前のような大行列にはならないが、エントランスには多くの客が訪れている。こんな非常事態とも知らずに、ロビーでくつろぎ一組また一組と、迷宮のようなホテルの奥に案内されていく。

今夜も大宴会場では、社員旅行の一同が盛り上がっている。このシーンだけ切り取ると日本が不景気になって、温泉地帯が壊滅状態になっているなんて気がつかない。相変わらず、中途半端な無礼講の時間が過ぎていき、若い社員は酔っぱらったふりをして、年長の社員のテンションに合わせている。すっかり冷めた料理が、食べかけで放置されている。

「下げちゃっていいよ」

そう言われて、健太は厨房に運び、数十分後には残飯の山になる。

「この仕事って正しいんだろうか、必要なんだろうか。そう思いながらも、やるしかない仕事もたくさんあるだろう」

大介の父が放った一言は重かった。大なり小なり、程度の差はあれど、日本全国みんな同じ思いで仕事をしているのだとしたら、将来に対しては絶望しか感じない。その一方でみんなそうだったのか、というすっきりした感覚もある。

そして今夜。これまでこんなことはなかったが、夜まで勤務していたスタッフが全員集まって、今日の振り返りと明日からどうするか、議論が交わされた。

この頃には、健太の心臓は落ち着いたようで、いつものリズムを取り戻していた。

さすがに手慣れたスタッフが大多数を占めていたので、ホテルの運営自体は問題がなかったようだ。むしろ、積極的に連絡を取り合って、ミスのないよう、失礼のないよう細心の手を打っていたことがわかる。売上金も全員で確認した。客が直接支払った現金は百万円程度あり、明日の食材仕入れは滞りなく進められる。ここで改めて問題になったのが、通帳が消えており、事前に振込された宿泊代金は回収できないだろうことだった。

大介による荒い計算ではあったが、スタッフの給料にも売上金を回せるだろうと踏んでいたが、そこまで余裕があるかどうかわからない。大介は驚くほど正直に現金が足りなくなる可能性について、その場にいる全員に説明した。

「大変申し訳ありません。予約人数と単価を考えると、皆さんの給料まで回せると考えていました。甘い見込みでした」

その場で暗い表情をしているのは大介だけだった。健太はそんなことどうでもいいと感じていたし、最年長の料理長があっさりと大介に答えた。

「そんなのどうでもいいよ。余ったら考えればいいことだ」

健太は、普段からスタッフと積極的にコミュニケーションを図っているつもりだったがこの状況で誰も逃げ出さずに、そして大介を中心に助け合っている光景に感動した。まるで三人が夜逃げしたことで、全スタッフの背中が押されているような感覚だった。

翌日も一緒だった。昼にはそこにいるスタッフが全員集まり、今日の予約状況を確認してから業務についた。

健太は余計なことを考えずに、ひたすらに体を動かした。あと十日だけ、とにかくやれるだけはやろう。やれるだろうか、と心配していた気持ちは気がついたら溶けて消えていった。誰に指図されるわけでもなく、給料のためでもなく、ここで燃え尽きてやろう、その思いが頭と体を駆け巡った。

「俺さぁ、お先真っ暗だと思っていたけど、大介のために頑張ろうと思ったから、やれてる気がするんだ。大介は親父さんとの関係大変なんだろ?」

残り一週間というタイミングで、大介に聞いてみた。

「親父には、予約客の迷惑にならないように二週間だけ営業させてくれって伝えた」

「それじゃ、親父さんは納得しないだろう」

「納得はしていないし、銀行内でもかなり危うい立場になっているかもしれない。だけど何となくだけど、俺の考えを聞いて嬉しそうに感じたんだ」

健太も大介も、しばらく休日をとっていない。それでもなぜか心地よい疲れを感じていた。

「あの日、大介がいなかったら、このホテルは最悪な歴史を残したかもしれないな」

「俺の方こそ、健太がいなかったら、あんな勇気は出なかった。親父に、大介がどうにかできる問題じゃないって言われて、何か見返してやりたいって思っていたんだ」
 
ついに最後の予約客を迎える日になった。スタッフ全員が朝早くから集合して、たった1組の客のために打ち合わせをしている。

健太は後輩社員にサービスを任せて、感慨深く館内を歩いて回った。立体迷路のような巨大な建物を、今では迷うことなく隅々までたどり着ける。最初の頃は、チェックインした客をスムーズに案内できずに、客に笑われながら探検したものだった。

女将はいつも笑顔で、働いている清掃スタッフに感謝して、いつも運んでくれる酒屋と談笑し、クレームでパニックになっているスタッフには「大丈夫、私が代わるから」と声をかけていた。

そして今、健太は女将の日々を追いかけている。女将が抜けた穴を必死に埋める二週間だった。女将の大変さを今更ながらに実感した。

バブル経済の熱狂が終わり、多くの企業や銀行は後始末に追われている。このホテルもその後始末に飲み込まれて、女将は消えてしまった。その虚しさはずっと残っている。できることなら一緒に乗り越えたかった。どこへ行ってしまったのだろうか。残された健太ら社員一同が後始末をする番になった。

健太にとって苦しいのは、予約電話の受付だった。設備工事を行うので当面は休館するという説明で納得してもらっていたが、嘘をついている罪悪感とその先の未来がない失望感を毎回味わった。

途中から真っ白になっている予約帳をめくった。去年の予約帳も取り出してめくってみる。その前の年も、さらに前も、健太が入社した年までさかのぼる。

「なんでこんなに、面白いように予約が埋まるんだ」

大介と不思議がっていたことが懐かしい。女将と話すのは緊張した。社会に出てから、初めて大人という存在を意識して、自分が子どもに思えてしょうがなかった。

事務室でひとり、今度は予約帳を昔から現在に向かってパラパラめくる。

次の一冊、また次の一冊と年月が流れて、途中から白紙になっている一冊に戻った。ここまで健太が成長できたのは、先輩社員だけでなく、たくさんの客のおかげでもあった。

明日からどうなってしまうのだろうか。大介も「明日考えよう」という調子で、先のことは考えられないようだった。

電話が鳴り響いた。また予約を断るのは心苦しいが、電話対応もこの一本で最後だろうか。

「お問い合わせありがとうござい」

健太がここまで言った直後に「ごめんね」と小さな声が聞こえた。

「えっ」

しばらく空白が流れた。

「・・・なさい・・・、ごめんなさ・・・」

受話器の向こうは嗚咽で、途切れ途切れになっている。

「めんなさい・・・めんなさい・・・」

「女将さんですか?どこにいるんですか?」

遠くの方で車が走っている音が聞こえる。公衆電話だろうか。

「健太君、本当にごめんなさい、ごめんなさい、本当に...」

「女将さん、今日までみんな立派に勤めました。安心してください」

「...ごめんなさい」

女将との電話は終わってしまった。あの女将が、ただただ謝っていた。

何があったのか、なぜ消えてしまったのか今どうしているのか。女将と話したいことは山ほどあった。

しかし、もう二度と話すことはないだろうことが直感的にわかって、健太は声を上げて泣いた。

時代のせいなのだろうか、なぜこんなことになってしまったのだろうか。大介が事務所に戻ったことに気がつかないほど、声を上げて泣いていた。

                               終