あ.い.さ.つ.blog

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【スターマイン(仮)】

2022年夏に書き上げた「スターマイン(仮)」です。もともとラストシーンのイメージは強烈にあって、どういうストーリーを絡めていこうか悩んでいた作品でした。コロナ禍で花火大会の中止が相次いでいましたが、今年になって、ちょっとずつでもイベントや生活を取り戻そうという空気が出てきました。

 

うつのみや花火に行った頃の思い出、それに父親目線をミックスさせて書き上げました。ご一読いただけると幸いです。

 

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 

頭上はるか高く、夜空に打ち上げられた花火を見たい、それが茜の憧れだった。小さい頃からずっと、自宅の2階から遠くに見える花火を両親と見ていた。茜は何回も父にお願いした。

「近くでみたいなぁ」

「いつになったら花火会場に行けるの?」

父は毎年のように決まって、大きくなってからね、としか返事をしなかった。遠くに見える花火は、もっと手前にある森に遮られてしまうので、まんまるの形で見えることの方が少ない。派手に何発も音が鳴り響いて、たくさんの花火が連続で打ち上げられても、茜にとっては夜空が色とりどりに光るだけで終わってしまい、森の向こうではどれだけの光が輝いているのだろうか、想像するしかなかった。

父と母は2階のベランダで、茜のことを交代で抱っこしながら花火を見せるのが、毎年の一仕事だった。茜が小さい頃は、ちゃんと見えないイライラと、眠気が大きくなってきて、花火を見ながら母の腕の中でいつの間にか寝てしまっていた。小学生になると、見たいテレビ番組のタイミングを見計らって、途中でリビングに抜け出して、でも両親は相変わらず花火で盛り上がっていて寂しくなり、またベランダに戻る、そんな花火の夜だった。

茜が10歳になった夏、そろそろクライマックスというタイミングになって、リビングからベランダに戻った。背伸びをしながら見ていたら、隣で父がぼそっと聞いてきた。

「茜も来年は6年生だもんなぁ、そろそろ会場に行って花火を間近で見てみようか」

茜は即答した。

「やったぁ、来年は絶対に3人で行くよ」

茜にとって大きな楽しみができた。テレビやフリーペーパーで花火大会の特集があると、次こそは近くで見られる、と思い出して父にも約束の確認をした。毎年打ち上げられる花火、宇都宮花火を1年間待った。もちろん地域の小さなお祭りなどで、花火が打ち上げられるのを会場で見たことはある。しかし、あんなに遠いのに、家まで音が鳴り響いて、夜空が照らされる宇都宮花火は、近くで見たらどれだけの迫力なのか、茜には想像もつかなかった。

6年生の夏休みになり、うつのみや花火が行われる頃には宿題をほとんど終わらせた。浴衣を着ようか迷ったが、小さいキャラクターが入ったデザインに子どもっぽさを感じてしまい、どうせ家族で行くからということで、ラフな格好で行くことに決めた。母にとっては大きなお祭りに行くなんて久々なので、誰かに会ったらどうしよう、とそればかり心配していた。

「どうせ夜だから化粧も服も見えないよ」

茜がそう言っても、母は1回決めたワンピースをしまって、滅多に着ないスカートにしてみたり、虫に刺されるからとデニムにしたり、結局当日の出発になるまで服選びに悩みに悩んで、最初のひまわり模様のワンピースにどうにか着地した。

 

父が運転する車は、どんどん細い路地を駆け抜けていく。大渋滞を避けて住宅街を走るのでスピードを出せるわけではないが、スムーズな流れだった。父が言うには、橋が渋滞するポイントなので、午前中のうちに渡っておこうという作戦だったが、夕方になって茜は意味がわかった。真っ赤に染まったカーナビの画面を見ているうちに、花火大会がはじまる1時間前には駐車場に到着した。

父の準備は完璧だった。父と母は、茜が生まれる前にこの花火大会に1回だけ来たことがあるらしく、結局大渋滞で駐車場までたどり着かず、一緒に車の中から花火を見上げていたらしい。ひょっとしたら、茜がベランダから抜けて両親だけで花火を見ていた時に、その当時の思い出話をしていたのかもしれない。父にとっては長年のリベンジだったのだろう。

観覧エリアでシートを広げて待つ。時間があったので混雑をすり抜けて、たこ焼きを買ってきて3人で食べた。茜はなぜか緊張して、食欲があるのかないのか実感がなかった。父は無事に到着したことに安心したのか、満足そうに座っている。母は見知らぬ同世代のファッションチェックに忙しい。カップル、高校生や大学生であろう友達同士、茜たちのような親子、そんな大勢がガヤガヤと冷たいドリンクを片手に、露店が並ぶ道を歩いている。会社の同僚だろうか、ワイシャツ姿の何人かが集まって、すでにビールを飲んでいる。天気予報の通りに、陽が沈みそうなのに30度近くはありそうだ。

まだまだ観覧エリアは混雑している。座れる場所を探していたり、ばったり友達と遭遇して盛り上がっている。茜も周りを見てみる。同級生や知っている子がいるか、キョロキョロしているうちに、合図の花火が上がった。

まもなく開始時間になった。いきなり頭上高く打ち上がる。

茜の視界からはみ出そうだった。音の大きさにびっくりして目を閉じてしまった。目を開けると、見たことのない光の円盤が空いっぱいに広がった。月とか太陽なんて比べ物にならない。こんなに大きい怪物を見たのは初めてだ。細かく分かれた光がやがて消えていく。

「すごい」

言った瞬間に次の1発が打ちあがる。茜の全身がドーンという音を受け止めている。頭のてっぺんからつま先まで音の衝撃を感じて、しばらく余韻が残っている。心臓がドキドキしているのがわかる。

「茜が大きくなったら、一緒に見たかったんだ」

父が話しかけてきた。

「すごい」

また茜は同じことを口にしたが、すごいとしか言いようがなかった。また次の1発が打ち上がる。溢れんばかりの光のドームに包まれて、目がおかしくなりそうだった。そして全身で感じる音の衝撃。

「あれは牡丹っていう名前の花火だ。とにかく大きいよね」

父が隣で教える。茜の家族は3人で並んで座り、両手を後ろについて見上げている。また大きな花火が上がった。

「また牡丹だね」

父が繰り返す。

「もうちょっと怪物みたいな名前でもいいよね」

と茜が返事をする。

また大きく3発連続で打ち上げられる。夜空全体が花火でいっぱいになったように見えて、次の瞬間には粉々に散った花火が消えながら暗闇に戻る。あっという間に広がって、あっという間に消えてしまう。まだまだ打ち上げられることがわかっているけど、次の花火が打ち上がらないと暗くて寂しい気持ちになった。真っ暗な夜空の方が世界の何かが間違っている、そんな感じがした。

放射状に光が伸びる。牡丹でないことは一目でわかる。

「あれは菊ってやつだ」

次から次へ、菊も夜空いっぱいに広がる。菊は光のドームが頭上から降ってくる感覚だ。牡丹と菊はどっちが素敵かなぁ、と考えていたら、交互に色とりどりの牡丹と菊が打ち上げられて、茜はどっちがどっちでもよくなってきた。全身で浴びる音や衝撃も慣れてきた。母も扇子で顔を仰ぎながら、父も茜もそっちのけで花火を楽しんでいるように見える。

少し間をおいて、1発上がった花火は音を立てて割れたかと思うと、長い尾を引いて夜空に流れた。また打ち上がって、尾を引いて流れて消えていく。

「髪の毛みたい」

と茜がぼそっと言うと、隣で父が

「あれは柳っていうんだ」

と教えてくれた。牡丹や菊とは違って、確かに言われてみれば柳はその名の通りに見える。柳も素敵だ。茜の目は、金色の柳が流れて消える様子をじっと追いかけた。何発も柳が連続で打ち上がり、夜空に光のカーテンを広げたように見える。こんな演出を考える花火師は本当にすごい。さらに大きい柳が打ち上げられた。

「あれは、大柳」

「そのまんまだね」

続いて、柳のように広がったかと思うと、それぞれの光の尾がさらに細かく分かれた。これはこれで大きな植物のように見える。

「あれは、椰子」

「またそのまんまだね」

しばらくして茜は、父がずいぶんと花火に詳しいことに気がついた。何気なく聞いていたけど、茜から話しかけなくてもいちいち解説してくれる。打ち上げ花火の名前ってみんな知っているものなのだろうか。

「あれは、牡丹」

「また柳だね」

「柳と菊の組み合わせだね」

父は打ち上るたびに名前を口にしている。普段はお喋りではない父が、思いつきのように何かを口にするのは珍しい。

夜空で弾けたかと思うと、細かい花火が縦横に飛び回っている。

「あれは、蜂」

蜂ってあんな風に飛ぶんだっけ。だんだん花火の名前はどうでもよくなってきた頃、展開が変わってきた。高く打ち上げて大きく広がる花火が多かったが、低い位置で連続で打ち上げられている。高さがないので、映画館のスクリーンに花火がいっぱいに広がっているようだ。これでもかこれでもか、というくらい花火が目の前で弾けて柳のように光が尾を引いて流れていく。見たこともない景色だ。

「あれは滝って呼んだり、ナイアガラって呼んだりするやつだ」

ナイアガラよりすごい景色を見ている気がする。残念ながら目を奪われているうちに、その景色は10秒と続かず消えてしまう。

茜は母に聞いてみた。

「お父さんってあんなに花火に詳しかったっけ?」

「さぁ、家から見ていた時には、花火の種類なんて何も言ってなかったよ」

確かにそうだ。ナイアガラはまだ続いている。ベランダから森に隠れて見えなかった光の正体が、今は茜の目の前で広がっている。これが見たかったんだ。もっと早く見たかったけど、今年は3人で一緒に見られてよかった。ひょっとしたら誰よりもそう思っていたのは父かもしれない、ふとそう思った。

1発の花火が頭上高く打ち上げられた。破裂して横に広がる。また上がった。破裂して横に広がる。今度は角度が変わって土星のような形に見える。

「あれは」

「土星」

茜は当てずっぽうで答えてみた。

「大正解、土星っていうんだ」

土星からはじまって色々な形のシリーズが続いた。

「こんなこともできるんだ」

父も驚いていたので、あまり見ない形なのだろう。父は花火大会に向けて、花火の形と名前を覚えてきたに違いない。やっと家族3人で花火会場に行ける夏、父なりに精一杯この場を盛り上げようとしたのかもしれない。が、しかし。

「あれは、千輪」

「あれは、蝶々」

「また牡丹だ」

父の解説を聞いているうちに、返事をするのが面倒になってしまい、茜は何も言わなくなった。それでも父は、花火が打ち上がると名前を呼んでいたが、茜としても、静かに見ようよ、とはさすがに言いにくいので、そんな父を放置する形になってしまった。

クライマックスが近づいていることがわかる。様々な仕掛け花火が連続で打ち上っている。1つ1つの花火の名前は、父のおかげで茜もだいたい覚えてしまった。そんな父に対して、すごいと感じる一方で、別に花火大会に連れてきてもらえれば、それだけで充分楽しいのに、と思わずにはいられなかった。

目の前で数え切れないほど、赤とオレンジの光が交互に弾けては消える。

「あんな風に、いかにもクライマックスの感じの花火は、スターマインって呼ぶんだ」

「夕焼けみたい」

そろそろ父の解説も最後かな、と察して返答してみた。

「あの花火が夕焼けに見えるなんて、茜は天才だね」

 

花火大会の帰りは大渋滞に巻き込まれた。クライマックスの前にシートを片付けて、会場を後にする団体が何組もいたが、混む前にここを脱出しようとしたのだろう。茜はたいして歩いたわけではなく、河川敷に座って見上げていただけなのに、全身ぐったりだった。母は満足そうに父と話している。父は上機嫌だった。渋滞でノロノロ運転ではあったが、コンビニに寄ろうか、トイレは大丈夫か、と気味が悪いくらいに茜に気をつかっている。父が話しかけてきた。

「茜と一緒にあの会場に行けるのは、最初で最後かもしれないね」

「来年も来ようよ」

「たぶん、中学高校になったら部活とか塾が忙しくて、花火どころじゃなくなるよ。塾帰りに遠くの花火を見たりするくらいじゃないかな」

「そうかなぁ」

「茜が小さい頃は夜遅く遠出できなかったし、ちょっと大きくなると茜は茜で忙しくなって、もっと大きくなると友達同士で行くことになるだろうし、こうやって家族でゆっくり花火を見るチャンスも、花火みたいに一瞬で終わってしまうんだよ」

何を格好つけたことを言っているんだろう、と茜は思ったが、父の周到な下調べを思うと、確かにそうなのかもしれない。

「ふーん」

と味気ない返事をして、この話は終わった。

茜が中学生になると、父が言っていたように塾の夏期講習の帰りにうつのみや花火を見ることになった。自転車にまたがって国道沿いで信号待ちをしながら、遠く微かに見えるような見えないような、花火の欠片を感じる程度でこの年の花火大会は終わった。会場に行けないなら別にどうでもいいや、と茜は思えた。

高校生になると、バレー部に入った茜は日が暮れるまで部活を頑張るようになり、花火の欠片すら感じることはなくなった。合宿や大会に明け暮れて夏が終わり、またうつのみや花火に行けるタイミングが訪れたのは、部活を引退した3年生になってからだった。茜は進学するか就職するか悩んだ時期もあったが、早く地元で働いて自分のお金を自分で使いたい気持ちがあったので、就職活動をすることに決めた。ここでも父が言っていた通り、茜は同じく就職活動をしている友達とうつのみや花火に行くことになった。

仲良し3人で行く花火大会は、茜にとって忘れられない思い出になった。シャトルバスで会場に行き、ほとんど座ることなく食べ歩いているうちに花火が終わってしまった。家族3人で来た時には花火自体に感動した記憶があったが、友達同士だと何をしていても楽しくて、たまたまその日は花火が上がっている、そんな感覚だった。茜はふと、父と母も2人だけで来ればいいのに、と考えた。友達と花火大会に行ってくる、と言って臨時の小遣いをもらったものの、夫婦水入らずで行ってみたら、と提案するような発想はなかった。家に帰った茜に母が聞いてきた。

「久しぶりの花火はどうだったの?」

「すごい楽しかった」

「お金は足りたの?」

「うん、大丈夫。ずっと食べてずっと喋ってた。お母さんもお父さんと一緒に来れば良かったのに」

「そっかあ。良かったね。何だか2人で行くのもね。3人で行った時は、行きたい、行きたいって茜が散々言ったからだよ」

「そうだったっけ?」

母は笑っていた。いつか私が2人を誘って行ければいいな、そんなことを思いながらリビングの床に寝転がって、楽しかった夜の余韻に浸った。

 

高校3年生の夏休みは、興味があるところを選んで企業見学に行くよう、進路指導の先生から言われる。茜の学校では就職予定であれば、少なくとも3社は見学に行くように勧めている。茜は学校に届いた求人票を見て、事務職を選んで見学に行ってみた。どの企業も見学されることに慣れているようで、当たり障りのない会社の紹介をしてくれて、邪魔にならないように見学をして1日を過ごした。

茜としては、パソコンが使える事務の仕事であればこだわりはなかったが、見学をした3社のうち証券会社の営業事務に惹かれていた。金融関係はまったく知らない世界だったが、むしろ強烈に興味を持ってしまい学校の先生に相談をした。製造業で働く父とパートタイムで働く母は、証券会社に対して接点がなさすぎて、アドバイスも反対する理由も見当たらなかったようだ。

「茜が行きたいんだったら決めてもいいよ」

両親は応援してくれた。志望校を決める時、部活を選ぶ時、塾を辞めたいと言った時、振り返ると、茜が悩んで決めたことに対しては、どんな時でも、茜がやりたいんだったらいいよ、と言ってくれた両親には本当に感謝をしている。本当は進学してほしかったのだろうか、地元で、しかも家から通える範囲に就職することに安心しているのか、本心はわからなかったが、無事に内定を取ることができた。茜にとっては、就職して働くなんてまったく実感がなかった。いつまでも女子高生でいたい、社会に出たくないって話す友達もたくさんいたが、茜は学生生活の延長みたいに仕事もできればいいな、そんな思いで卒業までの日々を過ごした。

 

入社式の日が訪れ、その日は丸一日本社で過ごして研修を受けた。求人票では5名採用予定とあったが3名しか採用しなかったようだ。残り2人の新入社員と仲良くなる暇もないくらい、立て続けに会社全体の部署紹介、金融関係の基礎知識、コンプライアンスに関する講義を受けた。座学ばっかりだったとはいえ、茜は業界用語のパズルと緊張感が続き、さすがにぐったりして入社初日を終えた。

「お仕事、お疲れ様」

家に帰ると、母が元気に迎えてくれた。

「ありがとう。今日は勉強ばっかりで疲れちゃった」

「明日から支店で大丈夫なの?」

言葉とは裏腹に、母がまったく心配なさそうな顔で聞いてきた。

「大丈夫大丈夫。明日からが本番だよ」

実際のところ、入社2日目から支店で勤務するようになり、実際の業務について研修を受ける流れになっている。アルバイトもしたことがない茜だったが、むしろ恐れるものは何もない気分で初日を終えた。

2日目の朝、茜はバスに乗って配属になった証券会社の支店に到着した。在学中に運転免許を取得したものの、バスで通える範囲だったので安全を考え、当面はバス通勤をすることにした。支店には8人が在籍しているので、茜が加わって9人だ。研修で聞いた支店長の門田は、昨年異動で来たばかりらしい。企業見学の時には前任の支店長だったので、茜は初めて聞く名前だった。事務所にあるホワイトボードのカレンダーを見ると、その門田支店長は出張で不在だった。

「奥村といいます。こちらどうぞ」

茜は、奥村と名乗った社員に案内されるまま席に着き、何をしたら良いのかわからないまま座って待っていた。9時になり朝礼がはじまった。茜は他の社員の動きに合わせて横一列に並び、奥村が前に立った。何かを読み上げている。どうやら奥村が昨日の営業成績、今月ここまでの営業成績を発表しているようだ。淡々と読み上げているので、その成績が良かったのか悪かったのか、茜には何もわからないまま朝礼が終わってしまった。あれ?みんなの前で自己紹介ってしないのかな、と茜は思ったが、とりあえず席に戻った。

最初に案内してくれた奥村が言う。

「そういえば、新入社員の席は決めたのかなぁ」

「あの、どこでもいいです。よろしくお願いします」

「ちょっと確認してくるから待ってて」

茜はしょうがなく、忙しそうにしている他の社員と目が合わないようにしながら、また待つことになった。どうやって自己紹介をしたらいいんだろう、そういえば誰が誰だかわからないし困ったな、そんなことを考えていたら奥村が戻ってきた。すでに15分経っていた。

「とりあえず今日はそこの席でいいよ。明日は支店長がいるので、自己紹介は明日にしましょう」

「はい、ありがとうございます」

「今日は最初なんで、事務所の中を色々と見ておいて」

茜が7人の社員を見る限り、奥村が一番忙しそうに見える。手を動かしているわけではないのだが、他の社員に次々と相談されて答えている様子だ。支店長が出張だから、あんなに忙しいのかな、もっと時間的に余裕のある人が教育担当の方が気が楽なんだけどな、と考えているうちに、唯一の女性社員と目が合った。

「はじめまして。宇佐美茜と申します。今日からよろしくお願いします」

茜は立ち上がって挨拶をした。その40代くらいだろうか、女性社員も立ち上がって挨拶をしてくれた。

「渋谷です。ちなみに、どうして証券会社に入ろうと思ったの?」

「お金の勉強になるし、世の中を知ることができて、面白そうと思いました」

茜はまるで面接のように1秒で即答した。

「まぁ、お金には詳しくなるかもね」

渋谷と自己紹介してくれた女性社員は、軽い笑顔を見せて、ゆっくりやっていきましょ、と声をかけて自分の仕事に戻りかけた。茜はふと聞いてみた。

「私は奥村さんに教わればいいのでしょうか?」

「たぶん、そうじゃないかな」

「ありがとうございます」

その奥村は視界から消えており、すでに外出したようだ。後で1人ずつ挨拶すればいいや、と思いながら事務所を回ってみることにした。事務所内はどこのデスクからも入口が見えるので、来客にはすぐに気づくようになっている。パーテーションで区切られた打ち合わせブースが3つあり、そこで金融商品について説明したり、相談を受けたりするのだろう。営業開始から1時間経つが来客はない。

私は営業事務として何をするんだろう、茜は改めて思った。求人票や面接の場では、事務処理や来客対応が中心ってことではあったけど、今のところそれをやっている社員が見当たらない。男性社員は封筒に資料を詰め込んで、1人、また1人と外出して、渋谷と2人だけになった。

「あの、渋谷さんはいつもどういう仕事をしているのですか?」

「営業事務は外回りする社員とは違って、いろんな事務処理とか、お客さんが来たら商品をおすすめしたり、その日によってやることも忙しさもバラバラかな」

「ひょっとして、私は渋谷さんと同じような仕事をするんですか?」

「そうかもね」

茜としては、何もしないで見学だけするのも申し訳ないし、親子ほども離れているだろう男性の奥村に教わるくらいなら、同じ女性の渋谷の方が気が楽だ。

「今日の渋谷さんの仕事を、邪魔しないように見ていいですか?」

「もちろん、いいけど」

「でも、なんで奥村さんが私の教育担当なんでしょうか?」

「たぶん、私は明日から違う支店に異動するからじゃないかな」

茜はこれが何を意味しているのか、考えをまとめるのに時間がかかった。

「明日からは、この時間の事務所は私だけになるんですか?」

「宇佐美さんと奥村さんが事務所内の対応をするんじゃないかな」

茜は考えた。今日できることをやっておいた方が、明日になって困らないのではないか。渋谷が続ける。

「この支店の営業事務だった子が、冬になる前くらいかな、辞めちゃったから、臨時の穴埋めで私が来たってわけ。ベテランになるといいように使われちゃうのよ」

「私にできますかね?」

こんなことは聞きたくはなかったが、茜はふと不安になってしまった。どうしてその子は辞めちゃったのだろう。

「仕事は見ての通り、忙しくないから大丈夫だろうけど、門田さんが大変かもね。支店長になったばっかりなんだけど、とにかく成績、成績って何をそんなに焦っているんだろうって思っちゃう」

入口の自動ドアが開き、初老の男性が入ってきた。渋谷が慣れた様子でブースに案内して麦茶を出す。渋谷は客の向かいに座って、客の言う話を聞いている。離れたところから茜はその様子を見ていたが、どこで道路工事がはじまったとか、株価低迷に対する政府の対応の遅さについて、渋谷に不満をぶつけているようだ。聞いている感じは世間話のようだが、茜にはそんな世間話を緊張して聞いていた。

このタイミングで次の客が来ませんように、と茜は祈っていたが、話題がひと段落したタイミングで渋谷はゆっくり立ち上がり、また寄ってください、と声をかけた。言われた初老の男性は満足げに手を振って事務所を後にした。また渋谷と2人になった。

「さっきの方は何か用事があったんですか?」

茜は渋谷に聞いてみた。

「たぶん、たまたま通りかかっただけじゃないかな。だいぶ前に投資信託を勧めて買ってくれたらしいけど、だいたいな感じで話を聞いて、相槌を打っていれば大丈夫。また来ると思うから、あんなで感じで聞いてあげればいいわよ」

それが難しい。自分の祖父ですら2人きりで話を続けるのは難易度が高い。人生の大先輩の何を言い出すかわからない話を聞いて、そしてちょうど良い加減で話を終わらせて、気持ちよく帰ってもらうなんて至難の業だ。

渋谷が取り扱いをしている金融商品のパンフレットや契約書をずらっと揃えてくれた。

「とりあえず明日から、接客とか提案の仕方を教わると思うから、資料を頭に叩き込んでおいたらいいんじゃないかな」

茜は入社前にはホームページを見て、ある程度の商品が頭に入っていると思っていたが、現場に立って一瞬で吹っ飛んでしまった感覚だ。内定が決まってから、母と一緒にリビングに並んで座り、あんなに盛り上がって商品を見て覚えたつもりなのに、全然頭に残っていない。客が来ない時間帯は、渋谷が言うように商品を頭に叩き込んだ。どういったラインナップがあるのか、それぞれの特徴、メリットやデメリットについて、思い出すというよりゼロから復習した。

夕方になったが、外出した男性社員は誰も戻ってきていない。奥村が戻ってきたら、2日目はどういったことを研修する予定なのか聞いて、心の準備をしておきたかった。

結局、そのまま退勤の時間になり、渋谷と一緒にタイムカードを押した。帰りのバスで茜は今日一日のことを振り返った。何かしたようで何もしていない。奥村と朝少しだけ話をして、その後は渋谷が何人か接客するのを見ていただけだ。その他は、誰がどういう社員なのかもわからない。明日からの研修は大丈夫だろうか、茜は考えた。バレーの大会で負けて、悔しくて練習を頑張ったのとは全然違う。テストの点数が悪くて、ため息をついたのとも違う。会社ってこういう感じなのかな、そんなことを考えているうちに家に到着した。

帰ってくるなり母は色々聞いてきた。

「支店はどうだった?カッコいい先輩社員はいるの?」

「みんな忙しそうで、そんなゆっくり見ている場合じゃないよ」

「あらそう。茜も新しいことばかりで疲れたでしょ?」

「そうね」

茜は嘘をついた。改めて考えてみると、入社式があった昨日の方が断然疲れていた。今日は不完全燃焼の以前に、燃えるものも燃やすものもないままで終わってしまった。強いていえば、商品を頭に叩き込んだことくらいか。部屋でもう一度だけパンフレットを見直してみよう。

「出された宿題をやって、今日も早めに寝るね」

そう言って、自分の部屋に向かった。

2日目は門田支店長がすでに出勤していた。むしろ門田だけでなく、昨日の朝と同じように、茜が事務所に到着した時には全員が揃っていた。ひときわ大きい声で指示を出す男性がおり、一発で門田だとわかった。門田も他の社員と同じように資料を揃えて、外回りをする準備をしている。茜は邪魔にならないように近づいて挨拶をした。

「宇佐美茜です。よろしくお願いします」

「おう、君か」

返事はそれだけで、朝礼の時間になった。門田が前に立ち、渋谷が抜けた他の社員は一直線に並ぶ。茜が増えて、渋谷が減って変わらず8人の支店だ。

「奥村さんは昨日実績なしですね。今日の訪問予定はどうなっていますか?」

「過去に契約まで至らなかった顧客を中心に、今日中に3件回ってくる予定です」

「3件しか回れないのですか?」

「今日は新人研修を予定しているため、夕方以降の訪問になります」

ちゃんと茜の研修は行われるらしい。間髪入れず門田は続ける。

「3件では足りないので2件追加してください」

「はい」

門田と奥村がテンポよく発言する。門田の目が横に移った。

「佐々木さんは昨日どころか今月はまったく成果を出せていないですね。仕事をしていないに等しいです。どうするつもりですか?」

「先月契約していただいた顧客に挨拶に伺い、運用初月の報告を行います」

「で?」

佐々木と呼ばれた男性は言葉に詰まっている。門田が続ける。

「友人を紹介してもらう、同僚を紹介してもらう、親に提案してもらう、珍しく獲得できた1件なんだから何としても広げる、それだけ」

「はい」

朝礼での発言は、昨日までの実績と今日は何をするのか、それだけで終わってしまった。茜の目には、奥村以外の社員は門田の大きな声と早いテンポに付いていくのに精いっぱいで、まともな返答ができていないように見えた。そして、奥村以外には責め立てる姿勢が鮮明だった。今日も茜の紹介はなかった。

茜はいったん席に戻った。前の日にあんなに話しかけられていた奥村は手が空いている。奥村の席に向かった。

「今日はよろしくお願いします」

「よろしく頼むよ」

「はい」

茜は元気に返事をした。

「宇佐美さんが早く一人前にならないと困るんだ」

「奥村さんが外回りに行けないからですよね?」

「それもあるけど、続きは後で話す」

そう言って、奥村は事務所のパンフレットを全部持ってきた。

「では、お客さんが来るまではブースが空いているから、そこで解説しよう」

奥村に対しては、ちょっと素っ気ないイメージだったが、今日は丁寧に話してくれている。女性社員の渋谷がたった1日でいなくなる心配はあったが、奥村が丁寧に教えてくれそうな予感があった。

その予感は的中して、奥村の教え方は非常にわかりやすかった。並んでいるパンフレットから3冊だけ取り出し、売れている商品に絞って、なぜ売れているのか、どのように伝えれば相手に響くのか、鉛筆で図を描きながら説明している。奥村は長身で短髪、第一印象はスポーツマンタイプに見える。物言いも丁寧で、茜は前日に他の社員が奥村に集まって相談していた風景を思い出した。奥村の客になったら、思わず注文してしまうかも、と茜は感じた。

証券会社が扱う株式、債券、投資信託、外貨預金には様々な商品があり、茜の中で整理しきれていないところもあったのだが、茜がいつも使っている銀行預金や郵便貯金と比較しながら、実感として理解できてきた。午前中に中年女性の来客があり、奥村が対応、隣で茜が同席する場面があったが、奥村は初見の来客に対しても、まったく同じように説明をしていた。

銀行預金以外にも、資産形成の選択肢を増やしたいという相談に対して、どの程度のお金を運用に回せるのか、そのお金は何年後に必要になるのか、投資に対してどのようなイメージを持っているのか、先にしっかりヒアリングしたうえで、分散投資の提案、考えられるリスク、期待できるメリットを伝える。その中年女性は、証券会社に来てみて本当に良かった、と最後に礼を言って去った。素人の茜が見ても、また後日、具体的な相談をするために、必ず足を運んでくれるだろうと感じた。

「すごいですね」

奥村とまた2人になり、茜は感じたまま伝えた。客は喜んで帰った。分散投資の手続きをすることになりそうだ。これで申し込めば奥村の成績になるだろう。

「あんなお客さんばかりだったら、こっちも楽なんだけどね」

奥村は笑っている。

「奥村さんに教えてもらって、同席までさせてもらって勉強になります」

茜はこの会社で働くうえで、何とも言えない不安があったが、一気に吹き飛んだ。

「それは良かった。こっちも研修で教えるのは好きなんだ」

「そうなんですか?」

「だって、外回りに行かないで座っていられるし、数字が悪くても言い訳ができるからね。これは支店長には内緒だよ」

声を出して笑っている。茜も一緒に笑った。入社して初めて笑顔が出た気がする。

「宇佐美さんには早く成長してもらわないといけないから、頑張って教えるよ」

「やっぱり、早く一人前にしろとか、外回りに行けって言われるからですか?」

「ちょっと違うかな」

と奥村が話したところで、前日も来た初老の男性が入ってきた。自然に体が動き、茜は入口で迎えて、ブースに通した。麦茶を出して奥村が対応する。道路工事の話、物価の話、政治の話、ほとんど昨日と同じ内容だ。渋谷が対応していたように、奥村も相槌を打っている。タイミングよく奥村は立ち上がって、来客対応は終わった。

「昨日もいらっしゃって、同じような話をされました」

「来るときは来るって感じかな。ここを散歩か何かの休憩ポイントにしているんだろうけど、あぁやって、1回買ったら常連の顔して気軽に立ち寄るお客さんは、どこの支店にもいるよ」

「奥村さんはこの支店は何カ所目なんですか?」

「3カ所目、だいたい2年くらい経つと異動になっちゃうね」

話によると、奥村は20代半ばだろうが、落ち着いており安心感がある。

「早く一人前になって、奥村さんが褒められるように頑張ります」

「そりゃ助かるけど、俺のことは考えなくていいよ」

奥村は続ける。

「俺は今月いっぱいで辞めるから、それまでに宇佐美さんを育てるようにって言われているんだ」

「辞めるって何ですか?」

「4月末で辞めて転職することが決まっているから、ある意味、宇佐美さんを育てることが俺の最後の仕事だな」

茜はどう反応したらいいのかわからなかった。せっかく研修で教わるのが楽しくなって、頑張ろうってスイッチが入ったのに、また混乱した。入社日は座学で終わった。翌日は支店でほとんど相手にされず、渋谷がどうにか茜の話し相手になってくれた。その渋谷は異動でいなくなった。心配して迎えた今日は、奥村にわかりやすく教えてもらっているが、その奥村も今月末でいなくなる。会社ってジェットコースターみたいだ。気持ちが追いつかない。まだ1日半しかこの事務所にいないのだが、奥村がこの支店からいなくなることは、大きな損失のように思えた。

「来月から、奥村さんみたいな人がまた誰か来るんですか?」

茜が言いたいこととはニュアンスが違ったが、とりあえず話を繋いだ。

「誰も来ないと思うよ」

「なんで転職するのか聞いてもいいですか?」

「新人にこんなこと言っちゃっていいのかな」

奥村は初めて困った顔を見せている。

「私は大丈夫です。他の人に漏らしませんし、何を言われても動じないと思います」

「証券会社って投資のプロがお客さんのお金を運用しているんだけど、実際のところAIが判断してスピーディーに運用した方が勝てるんだ。もちろんAIは耳を傾けたり、提案はしないけど、運用実績は確実に負けてしまうって知ってる?」

「初めて聞きました」

「インターネットで投資をする人にとっては、AIが運用するインデックス投資が主流だ。なんせ、俺たちに対する手数料がかからないし、人間には負けないし、証券会社に来る意味がないんだよ」

「でも、さっきの女性は喜んで帰ってくれましたよね」

「そうなんだけど、もしだよ、さっきの女性が俺の母親だったら、話の続きとして、インデックス投資の話も必ず加えるっていうか、絶対そっちを勧めるね」

奥村は続ける。

「残酷な話だけど、元本が割れても大きな痛手にはならず、預金だけでは不安がある、そしてリアルな接客があった方が安心する、そういうちょうどいいお客さんしか証券会社はターゲットにできないんだ」

奥村の話は、証券会社のあり方に疑問を投げている内容だ。もちろん人それぞれの考え方があるだろうし、証券会社があることによって幸せを得た人もたくさんいることだろう。しかし、奥村は自分の考えに自信があるようで、迷うことなく茜に話している。

「だから転職するんですか?」

「そうだね。最初の頃はがむしゃらに外回りして、契約できたら喜んで、それでモチベーションも維持できたんだけどさ。こんな話していいのかな。聞かなかったことにしてね」

奥村はまた声を上げて笑っていたが、茜は笑えなかった。気持ちを切り替えるのが大変だった。とにかく仕事に集中しよう、奥村が辞めることは残念な気持ちがあるけれど、自分のことを精一杯やるしかない。

「また研修の続きをお願いします」

 

茜は4月の最終週には、事務所を1人でも任せられるくらいに接客経験を積み、商品についても説明ができるようになった。この頃には奥村も半日以上外出して、顧客への引き継ぎの挨拶を行っていた。他の社員も口を揃えて、奥村の離脱はダメージが大きいと語っている。本当に奥村は転職してしまうのだろうか、と疑問を感じるくらい奥村自身は精力的に勤務して最終週を迎えた。支店長の門田は、奥村に対して厳しい要求はしていない。それは奥村の仕事ぶりもあったと思うが

「どうせ辞めるからどうでもいいけど」

と朝礼で発言したことで、門田の本心が露呈してしまっていた。

最終出勤日の朝礼でも、奥村が挨拶をするタイミングはなかったし、18時を過ぎて退勤する社員が1人1人奥村の席に向かって礼を言い合った。茜もゴールデンウィークに入る前に片付けたい仕事があり残業していたが、奥村にどう感謝を伝えようか考えているうちに、奥村は立ち上がって帰る準備をはじめてしまった。

奥村は門田の席に行き、お世話になりました、と伝えたかと思ったら、そのまま茜の方に向かってきた。

「宇佐美さんがこの支店に来た初日に、新入社員の席はどこだっけ、みたいな冷たいことを言ってしまったけど、あれは連絡ミスがあったんだ。今さらだけど、申し訳なかった」

「そんなこと忘れていました」

「でも、そのとき宇佐美さんが、私はどこでもいいです、と即答したのを見て、きみは大丈夫かもなって思ったんだ。なかなか前向きな気持ちって教えられないからね」

きみは大丈夫かも、と言われて認められた気がした。

「ありがとうございます」

感謝の言葉を現在形で伝えて、奥村との挨拶は終わってしまった。

連休中は、高校時代の友達と会って近況報告をお互いにすることになった。会社によって研修の仕方、どんな社員が働いているのか、本当にバラバラで驚いた。茜は奥村くらいしか接点がないので、教え方がうまい先輩社員のおかげでとりあえず順調なこと、でも4月であっさりと辞めてしまったことをコミカルに話した。

「あのままずっと過ごしていたら、好きになっちゃったかもなぁ」

なんてことまで話して、茜は女子会を大いに盛り上げたものだったが、そんなコミカルな新入社員生活は続かなかった。

いきなり

「わかっていると思うが」

と切り出した5月最初の朝礼は、門田の独演会だった。

「奥村が裏切りやがったけど、支店としての売上を落とすわけにはいかない。奥村の顧客は俺が引き継ぐ。今日から新規開拓については、営業事務も含めて全員、毎日獲得が目標だ」

営業事務って契約目標とかあるんだっけ、と茜は思った。門田は続けている。

「文句がある奴は、後で私の席に来るように。どうせ、なんで奥村がいた頃よりも目標が高いんですか、なんてしょうもないことを考えているかもしれないが、今までが奥村に頼りすぎていたんだ。みんなでどうにかしろ」

門田の口調はさらに厳しかった。茜の目には、もういなくなった奥村を目の敵にしているようにしか見えない。

翌日からの朝礼は凄まじかった。

「昨日定時で帰った佐々木さん、実績ゼロですが大丈夫でしょうか。まさか外回りをしながら帰宅したと信じています」

「ゴールデンウィークに旅行を楽しんだ曽根さん、昨日も実績はゼロですね。どうやって取り戻すか考えてください」

「湯澤さんは契約1件獲得ですね。遠慮せずに3件くらいお願いします」

5月からの朝礼はキャッチボールにすらならず、門田は各社員に対して非情なコメントをぶつけていった。茜に対しては、朝礼では何も触れられていないが、営業事務も来月からは新規契約の獲得をしてもらうからな、と言われている。茜は未だに名前で呼んでもらえないことに、あきらめを感じている。

「門田さんにとっては、営業事務って誰でも構わなくて、たまたま来たお客さんの接客をして、契約が取れたらラッキーくらいの感じなんでしょうか」

自分の部屋で鏡の前に立ち、ビシッと言ってみた。事務所ではどの社員も戦々恐々として、外回りがしたいから、というより、門田がいるから事務所を脱出しているように見える。茜はいつも1人で客が来たら対応し、世間話以上でも以下でもない話をしているだけだった。家族には、毎日の仕事について詳しい話を一切しておらず、順調としか言っていない。友達にも同様で、さすがに愚痴を言うには早すぎるだろうと考えていた。ストレスを溜めておきたくないので、不満を言いたいときは鏡に向かって発散するのが習慣になってしまった。

「私は日々お客さんと愛想笑いしかしていないけど、外回りの営業さんは楽しんでいますか?」

 

6月になった。朝礼では茜が標的になることが増えた。

「昨日も営業事務は事務所を平和に守ってくれていました。感謝しています」

「昨日は、ふらっと立ち寄ったお客と楽しくおしゃべりをしたようですね」

茜は黙って聞いていた。朝礼中に発言を求められないだけ、まだマシだと感じた。どうにかして契約を取って見返してやりたい。出勤時と帰宅時の挨拶くらいは笑顔で言おうと心がけていたが、この頃には門田の目をまっすぐに見て話ができなくなってしまっていた。

いつも立ち寄っている初老の男性が、今日も相変わらずやって来た。麦茶を出しながら、茜は考えた。いつも初めて来るお客さんばかり狙っていたけれど、この人がまた追加で資産運用してくれれば済むことだ。

今日に限って、事務所に門田がいることが気になったが、茜は勇気を出して切り出すことにした。不景気の話題がひと段落した。

「この先しばらくは為替が安定しそうです。この機会に外貨の積み立てを検討されてみてはどうですか?」

「そういうことなら帰るよ」

茜の小さな一歩は、無残にも一瞬で消えてしまった。その男性の表情からは、もう寄り道ですら来てくれることはないだろうと察することができた。ただ、世間話をしたかっただけなのだ。もうちょっと近況を聞いたりして、慎重に提案するべきだった。門田はこの様子を見ていたのだろうか。

翌日の朝礼、門田と茜の目が合った。門田が一方的に話す。

「営業事務は昨日も成果がありませんでした。ただ1つ光る提案がありました。いつも来るおじいちゃんに外貨積み立てを提案したことです」

これだけで終わった。茜の提案を評価してくれたのかもしれない。あれで良かったのか。不確かな感触ではあったが、勇気を出して良かったと感じた。

翌日の朝礼でも同じ話題になった。門田に評価されたかもしれないというのは、茜の儚い期待だった。

「営業事務は昨日もそよ風すら吹かない平穏な一日でした。一昨日の提案は切れ味が鋭かったですね。なにせ、散歩の途中のおじいちゃんに外貨積み立てを提案するなんて、なかなか勇気が必要なことです」

また次の日、門田は言いたい放題になった。

「営業事務は昨日もいないも同然でした。3日前の暇つぶしおじいちゃんに対する外貨積み立ての提案は、さすがにパンチが効きすぎて契約には至りませんでした。せめて、もうちょっと色気のあるブラウスを着ていれば違う結果だったかもしれません」

茜は自分の手が震えていることに気がついた。どうか、自分の聞き間違いであってほしい。この場にいることが辛い。

男性社員が全員外回りに出ていき、誰もいなくなった事務所で1人、茜は呆然と過ごした。結果を出すことにこだわって、話しかけやすいという理由だけで知っている顧客に商品を提案してしまった。その安直さに問題があることは痛感している。でも、連日責め立てるほど私は悪いことをしたのだろうか。いつの間にか、門田を見返したいという気持ちがなくなり、とにかく1日が終わってほしい、そんな日々を過ごすようになった。何を言われても、朝礼だけやり過ごせばいい。そうすれば、契約できていない引け目はあるものの、誰の目も気にせずに夕方まで過ごせる。

家に帰ったらリラックスしようと思っても、なぜか仕事が頭から離れない。父も母も、向こうから仕事の様子を聞いてくることはない。一緒にリビングでドラマを見たり、たまに3人揃って夕食の時間を過ごしているが、仕事については触れていないので、辛い思いをしていることは知らないだろう。家でも門田のことを思い出してしまう自分が悔しかった。茜は両親に心配をかけたくなかったし、自分で決めた進路だから頑張れるだけ頑張ろう、それしか考えようがなく眠りにつく日々だった。

7月のある日、その日は門田が出張の日だった。茜は朝からリラックスして、事務所の掃除をしていた。門田がいないだけで、随分と気持ちが違う。今日はチャンスがあったら、久々に投資信託の提案に挑戦してみよう。5月も6月も契約には至らなかったが、もうちょっとで具体的な話に進みそうな気がする。とにかく、資産形成に興味を持ってもらって、再来店してもらえれば充分にゴール達成だ。事務所に来客があったら、じっくり耳を傾けて、これだ、と思う商品を勇気を出して提案しよう。もう新入社員じゃないんだ。まるでベテラン証券マンになったつもりでぶつかってみよう。そこまで茜がイメージして、朝礼の時間になったところで、門田が事務所にやって来た。茜の足は震えていた。自分は病気なのかもしれない。社員誰もが、ぎこちなく遅れて挨拶をした。

門田が前に出て、他の社員は一列に並ぶ。

「出張前に寄ってみたけど、何だか気合が足りないな。今日はある社員を褒めてあげようと思って事務所に来ました。そこにいる営業事務は、入社して3カ月以上に渡り、来る日も来る日もコツコツと麦茶を出して、お客と世間話をしてくれています。この成長ぶり、とても新入社員とは思えません。言ってみれば、一人前の女子高生の職業体験、そんな活躍です。職業体験で来た時にも同じような感じだったのかなと想像すると、胸が熱くなります。まだ早いけど、7月の月間賞はぶっちぎりで営業事務です」

気がつくと、茜の頬には涙が流れていた。もう無理だ。涙が止まらない。手も震え、両手で握っても収まらない。門田の攻撃対象は隣の社員に移っていたが、茜は朝礼の途中で抜け出して、外に飛び出してしまった。大通りに面した玄関前でしゃがみ込んだ。まだ涙が止まらなかった。

 

そこからどうやって7月が終わったのか、茜ははっきりと覚えていない。退職願を本社に提出して、やがてデスクに置きっぱなしだった私物が宅配便で届いた。両親は茜が口に出さなくても、仕事がうまくいっていないことを察していたらしい。あの日、茜が早退して帰宅した時、母も仕事を早退してくれた。母の顔を見たら、また涙があふれてきた。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

それ以上何も言えなかった。母は何も言わずに抱きしめてくれた。どうして誰にも相談できなかったんだろう、SOSを出そうと思えばいくらでも出せたのに、どうしてこんなことになったんだろう、そればかり考えていた。

「しばらく、ゆっくりしなね」

母はそれだけ言って、淡々とした日常が訪れた。朝起きて父と母の出社を見送り、テレビを見たり、雑誌を読み返して1日を過ごした。茜は、自分の体調が良いのか悪いのかもわからなかったが、生活リズムだけは崩さないようにしようと思った。社会人生活は3カ月で終わってしまった。もっと慎重に会社を選ぶべきだったのか、もっと早く逃げ出せば、元気いっぱいで次の仕事を探せたかもしれない。後悔しか出てこない。

「きみは大丈夫かも」

そう言って、あんなに懸命に教えてくれた奥村に申し訳なかった。奥村なら新しい会社で活躍していることだろう。父は私に対してがっかりしているんじゃないだろうか。まさかこんなに早く退職するとは夢にも思ってもいなかっただろう。父は相変わらず明るく接してくれるが、会社で何があったのか、一切聞いてこない。

やがて8月になり、父から花火大会に行こうと誘いを受けた。茜は驚いた。父は2人だけで行きたいらしい。遊んでいる場合ではないような気がしたし、もう何日も父とは会話らしい会話をしていない。気まずさもあったが、断る理由もなくて当日を迎えた。

前回家族で来たのは何年前だろう。楽しかったなぁ。やっと花火会場に行けるワクワクでいっぱいだった。そういえば、来週のお盆は高校時代の友達から遊ぼうと誘いが届いていた。どうしようか、そんなことしている場合だろうか、遊びに行ってもあの頃のように心から楽しめるだろうか。いろいろ考えが巡っているうちに会場に到着した。

父と並んで座る。茜は我慢できずに聞いてみた。

「お父さんは、私がたった3カ月で会社を辞めちゃって、聞きたいこととか言いたいことがあるんじゃないの?」

父は言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。

「言いたいことはあるけど、うまくまとまらなくて、ずっと考えていた」

やがて合図の花火が打ち上がり、次々と花火が打ち上がっていく。

あれは、牡丹だっけ、ちゃんと名前を覚えている。やっぱり大柳は綺麗だな、今年は音楽に乗せてリズミカルに打ち上がる。父の言いたいことって何だろうか。私は何をしているんだろうか。せっかくだし、今夜は花火を楽しもうと目の前の光景に集中するが、隣に座っている父が視界に入るとやっぱり気になる。茜の視線に気づいたようだ。一瞬目が合って、また2人の視線は夜空に向けられた。

「あれは、菊」

「あれは、蜂」

茜はびっくりして声が出なかった。次の花火が上がった。

「あれは、蝶々」

父は花火を見上げながら続ける。

「あれは、きみは、大丈夫」

「えっ?」

今度は声が出た。

「きみは、大丈夫」

花火はどんどん打ち上がっている。父はそれに合わせる。

「きみは、素直だ」

「きみは、明るい」

「きみは、頑張り屋だ」

空が明るく照らされる。身体に響く爆音も、心地よく茜を包んでいるように感じた。

「きみは、優しい」

「きみは、勇気がある」

「きみは、笑顔が似合う」

花火大会のクライマックスが近いようだ。父の言葉のペースより早く、花火が次々と連続で打ち上がる。

「きみは、きみらしくやればいい」

「きみは、何度でも転べばいい」

「きみは、帰る場所がある」

父が優しい顔を向けた。

「きみは、茜」

「茜の木は太陽のように鮮やかに染める」

茜は涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。なんだかおかしくなってきた。

「きみは、素敵な女性になる」

「もうわかったよ」

茜は笑ってしまった。

「もう大丈夫」

真っ赤に染まった、夕焼けのようなスターマインが、2人の顔を照らしている。